都響マエストロ列伝
エリアフ・インバル
エリアフ・インバル
©藤本史昭
都響スペシャル マーラー:交響曲第10番(クック版)
(2014年7月20・21日/サントリーホール)
1995~2000年に特別客演指揮者、2008~14年にプリンシパル・コンダクターを務めたエリアフ・インバルは、都響の演奏伝統に確固たる地位を築いた。その軌跡をたどるとともに、塩田脩(第1ヴァイオリン奏者)に思い出を聞きました。
エリアフ・インバル
Eliahu INBAL(1936.2.16~)
1991年9月6日 | 都響へ初登壇(第334回定期演奏会) |
1995年4月~2000年3月 | 特別客演指揮者を務める |
1994年4月~96年11月 | エリアフ・インバル=都響/マーラー・サイクル |
1999年3月~10月 | ワーグナーへの旅 |
(『ワルキューレ』を3回に分け演奏会形式で上演) | |
2006年11月19日 | 7年ぶりに都響へ登壇(プロムナードコンサートNo.320) |
2008年4月~2014年3月 | プリンシパル・コンダクターを務める |
2012年9月~2014年3月 | インバル=都響/新・マーラー・ツィクルス |
2014年4月~ | 桂冠指揮者へ就任 |
初登壇から特別客演指揮者時代まで
インバルの都響初登壇は1991年9月のベルリオーズ《死者のための大ミサ曲(レクイエム)》。大編成のオーケストラと合唱を見事にコントロール、各パートをしっかりと鳴らしながらバランスを整え、一体感のある響きを作り出した。「インバリッシモ」(強弱もニュアンスも極限まで追求する彼の姿勢を表した造語)は当初から健在だった。
その9月にはショスタコーヴィチの第1番・第5番、ストラヴィンスキー《火の鳥》(全曲)、マーラーの第2番《復活》なども演奏。そして、1995年度からの特別客演指揮者就任が決まる。早くも就任前年の4月から3年にわたる「エリアフ・インバル=都響/マーラー・サイクル」が開始された。1999年には「ワーグナーへの旅」と題して『ワルキューレ』全3幕を幕ごとに分け、演奏会形式で上演。オペラ指揮者としての手腕を示した。
特別客演指揮者の任期終了後は共演が途絶えていたが、2006年11月に7年ぶりの客演が実現(ショスタコーヴィチの交響曲第11番《1905年》、R.シュトラウス《アルプス交響曲》)。これが2008年度からのプリンシパル・コンダクター(首席指揮者)就任へつながる。
プリンシパル・コンダクター時代
2008年4月の就任披露公演はマーラーの第8番《千人の交響曲》。以後、マーラーはもちろん、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ショスタコーヴィチの交響曲を集中的に採り上げ、いずれも豪胆と繊細を兼ね備えた集中度の高い演奏で人気を博した。
マーラーは就任前年の12月に第6番 《悲劇的》と第7番を指揮、就任後は先述の第8番に続いて第2、3、4番 と《大地の歌》を採り上げ、そのまま交響曲全曲演奏に到達するかに見えた。が、2012年度から2年にわたる「インバル=都響/新・マーラー・ツィクルス」を開始、改めて第1番から番号順に全曲を演奏することが発表され、ファンを驚かせた。
2008年の就任後、最も衝撃的だったのは2010年11月に聴いたブラームスの交響曲第1番(プロムナードコンサートNo.341/サントリーホール)。分厚い弦楽合奏の上に、管楽器の光沢のある響きがくっきりと定位する。ベルリンのフィルハーモニー(ホール)で聴いたベルリン・フィルの音を彷彿とさせるもので、オーケストラの音が「変わる」とはこういうことか、と感嘆した。以前から都響はアンサンブルの良さと音色の美しさに定評があったが、インバルによって響きに太い背骨を与えられ、音楽の方向性が明確になったのである。
快進撃は続く。『音楽の友』2013年2月号の「コンサート・ベストテン2012」では、2012年のショスタコーヴィチの交響曲第4番(3月)、マーラーの《大地の歌》(3月)と交響曲第1番《巨人》(9月)、第3番(10月)が高く評価され、バイエルン放送響など有力団体が並ぶ中でインバル&都響は第4位にランクイン。
そのショスタコーヴィチの交響曲第4番は、2012年度ミュージック・ペンクラブ音楽賞の録音・録画作品賞とコンサート・パフォーマンス賞をダブル受賞、さらに同年度のレコード・アカデミー賞〔交響曲部門〕を受賞する快挙となった。
「新・マーラー・ツィクルス」は2014年3月の第9番で完結、さらに同年7月の都響スペシャルで第10番を演奏、最終章を迎えた。順次ライヴ録音されたCDシリーズは2014年12月に第10番まで到達、一連の録音は2015年度レコード・アカデミー賞〔特別部門 特別賞〕を受賞した。
日本のオーケストラ史に残る輝かしい成果を上げた「新・マーラー・ツィクルス」。本番におけるインバルの即興的な解釈の変化にも、オーケストラが難なく対応していたと評された。ここで、数字を見ておこう。特別客演指揮者時代、「マーラー・サイクル」が始まった年を入れて1994~99年度の6年間を見ると、インバルが都響を指揮した演奏回数は39回。平均して年に約6.5回である(依頼公演を一部除く/以下同)。これがプリンシパル・コンダクター時代になると2008~13年度の6年間に74回。年に約12回となった。
指揮者とオーケストラが化学反応を起こすには、それだけの共演密度が必要ということであろう。プリンシパル・コンダクター就任時72歳、インバルにとっても70代は自らのキャリアの円熟期だったはずだ。都響の場合も、2004年度の一時的な楽員定数縮小を乗り越え、2009年度から4管編成の復活を目指して楽員増が始まった(2014年度に楽員定数101人となった)時期に重なった。幸いな時代であったと思う。
今後
インバルは2014年4月に桂冠指揮者に就任、継続して聴けるのは嬉しい。2008年の就任以降で言えば、ベートーヴェンは第2、6番を採り上げておらず、ブルックナーは第1、3番が未奏、ショスタコーヴィチも交響曲全曲演奏には半数の曲が残る。今後を楽しみにしたい。
(友部衆樹)
エリアフ・インバルの思い出 マーラー9番、最後の5分間
塩田 脩
SHIODA Shu
第1ヴァイオリン奏者(入団/2014年1月)
私は2011年から時々、エキストラとして都響で弾かせていただいて、オーディションを受けることになったのが2013年。2月に1次、4月に2次、7月に3次、とオーディションが続きましたので、一緒に受けた三原久遠さんと2人、一瞬たりとも気を緩めることができない半年を過ごしました。季節が変わっても、心の中はずっと冬でしたね(笑)。
7月に3次オーディションを通過、9月から試用期間に入ったので、マーラー・ツィクルスの後半に間に合ったんです。第6番以降を弾くことができました。
一番記憶に残っているのは、やはり交響曲第9番ですね。本番当日はまず、家を出たくなくなる。会場へ行きたくない。そんな気分になりました。弾き始めるまでのプレッシャーがキツくて、すごく精神を振り回される曲なんです。でも頑張って本番をやり終えて、達成感というより放心状態になって楽器を仕舞って、帰宅して1時間くらい経つと、音楽をやってきて良かったな、という思いがゆっくりと湧いてくる。本番の3日間(2014年3月15、16、17日/東京芸術劇場、横浜みなとみらいホール、サントリーホール)ともそうでしたね。2日目には慣れるだろう、と思いましたが、全然そうはならなかった。
第4楽章の終わりに、第1・第2ヴァイオリン全員(30人!)が長いCes(変ハ)の音を総力を挙げて弾く場面があって、壮麗なクライマックスがあり、そして延々と静寂が続く最後の5分間に入ります。あれはもう、この世とあの世の境界線を越えた、黄泉の世界ですね。第1ヴァイオリンがppppで消えて、第2ヴァイオリンとチェロだけが残って、ヴィオラが最終のモティーフを奏でる。
当時、自分は第2ヴァイオリンでしたので、かなり緊迫しました。「集中する」レベルを超え、テクニックとか理論とかも超えて、一人ひとりが細胞の1個になって、一つの生命体として動かなければならない。誰か一人でも「こっちへ行こうかな」と別なことを考えたら、その瞬間に糸が切れる。そんな張りつめた状態でした。
初日(3月15日)のその場面で、インバルさんが涙を浮かべていて、弦パートも何人かが泣いていて、その刹那、集中が緩みそうになりましたけれど、また気合を入れ直して。息もできない、瞬きもできないような体験でした。音楽家として、ものすごい勉強になりましたし、あの本番でちょっと自分が強くなった気がします。
(取材・文/友部衆樹 月刊都響2016年2・3月合併号より転載)
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