座談会参加者(五十音順)
OB:堂阪清高(在団1970年4月1日~2012年3月31日 元ファゴット首席)、本間正史(在団1972年5月13日~2012年3月31日 元オーボエ首席)
現役:小池郁江(2002年9月1日入団 フルート)、佐野央子(2002年9月1日入団 コントラバス)、西川圭子(2002年6月1日入団 打楽器)
全体のレベルから、個人のレベルアップへ ~オーケストラとしての“性能”を高め続けた50年
―これまでの都響の歴史のなかで変わったこと・変わらないことは、どんなところにあると感じますか?
堂阪
僕は創立5年目の1970年4月の入団ですが、その頃とはオーケストラの質や雰囲気は全く違います。当時は若い楽員によるオケでした。その頃と比べれば、今ははるかに成熟して、同じオーケストラとは思えないくらいですね。
本間
どこのオーケストラにも技術の向上というのはあると思いますが、特に都響はレベルの向上は大きかったのではないかと思います。僕は1972年5月の入団ですが、とにかく先輩のなかでは堂阪さんという人が一番怖かったですよ(笑)。この人の言うことは聞いておいた方がいいだろうなと思いました。
佐野
私たちが入った2002年当時は、若い方が少なくて、優しいおじさまがたくさんいらっしゃいました(笑)。
小池
まだ創立メンバーの方がたくさんいらっしゃいましたね。
西川
ベテランの先輩方が、本当にいろいろなことを教えてくださいました。
堂阪
僕らが入った時は、みんなで一緒に勉強して、全体でレベルアップしていく感じでしたが、皆さんが入ってきた時にはもうある程度レベルが高くなっていたので、付いていくのは大変だったと思いますよ。
西川
そうですね。私の入った打楽器セクションでは、先輩方がそれまでに築き上げて来た音色があり、最初は一打一打ダメ出しで、時には、バチを持って構えただけで、まだ音も出していないのに「違う」と言われたり……(笑)。都響の音に近づいたかな、と感じるようになるまでに2、3年かかりましたね。トライアングル一つ叩くにしても自分なりにいろいろと試したり、失敗もしながら探ってみたいという思いもあったので、教えてくださる先輩方への感謝の気持ちと、自分でもやってみたいという気持ちが葛藤しましたね。
堂阪清高
本間
その気持ちは分かるなぁ! 確かに、教える側はその時々で最良のものを教えるわけだけど、習う側としてはその一つ一つの裏を取っていかないと納得できない、というのはありますよね。
佐野
私もコントラバスセクションのメンバーがガラリと変わる時に入ったのですが、先輩方からオーケストラとは何か、都響の弾き方とは何か、1から10までいろいろと教えていただきました。「都響のコントラバスセクションは日本一だ」という周囲の呼び声や先輩方の気負いはすごく、その一員としてやっていかなければいけないプレッシャーがありました。
堂阪
コントラバスセクションは、伝統的に結束力も強いですしね。
小池
私の場合は、入ってから一度も先輩から厳しく叱られたことがないのです。木管セクションの先輩方はとても優しくて、「いいよ!最高!」って褒めて育てる感じでした。いろいろダメなところはあったと思うのですが、あまり押さえ付けられずに温かく見守っていただいていた気がします。
本間
誤解を恐れずに言えば、オケのレベルが全体的に上がれば上がるほど、楽な面もありますね。昔は変な音がしていても、どこがおかしいのかが分からなかった(笑)。でも全体のレベルが高いということは、それぞれ自分がやるべきことがはっきり分かるので楽かもしれない。
佐野
その通りですね。 やっぱり上手い方たちに囲まれていれば、自分も頑張らなきゃと思える。
西川
皆がしっかりとした音を出していると、アンサンブルも気持ちよくできますね。
本間
その傾向がはっきりしてきた頃から、都響がどんどん成長したと思います。オーケストラとは、そういう現象が起こるところまで行かねばならないですね。オケの「性能を高める」ことには、みんな関心が高いよね。
佐野
どのオーケストラも「性能を高める」努力はしていると思いますが、そうなると、いずれはどこのオケの響きも均質的になっていくのでしょうか……。
本間正史
本間
オーケストラの個性も大事にしながら性能もパーフェクトを目指す、というのが理想的な考え方だと思います。みんな今は向上にだけ意識が向いているけれど、オケの性能が下がるという危険性だってあるのだから、安穏としていられないですね。
堂阪
僕らが入った頃より、本番の回数ははるかに増えているから、オケのレベルと仕事量のバランスは、どこかできちんと取らないといけない。現状はギリギリのラインかもしれません。
佐野
確かに、私たちが入ってからずっと「性能」は上り坂なので、落ちることは考えていませんでした。
本間
だから気をつけた方がいい。
西川
プレーヤーは経験値で良くなる面と、歳をとって衰える面もある。オーケストラのために個々人の性能も落としてはいけませんしね。
本間
そのためにやらなきゃならないことがあるとしたら、「自分で考えなさい」ということかな。都響の音を作るために、それぞれが自分の頭で考えて動いていくことが大事だと思います。
堂阪
僕が退団してから3年が経ちますが、この間にもオーケストラは成長していますよ。このまま、「より良く変わる」ことを「変わらず続けてほしい」ですね。この先もずっと、都響が成長し活躍していくために。
“マーラー・オケ”の楽員たちが語る歴代の指揮者たち
―ではここからは、歴代の指揮者の方々との印象深いエピソードなどをご紹介いただきたいと思います。
小池郁江
堂阪
僕は初代音楽監督・常任指揮者の森正先生が任期最後の年の入団です。その頃はプログラムの勉強会というのがありました。小ホールで曲を流してみんなで聴きました。未経験の人たちが多かったから、森先生がみんなに勉強させたいということでね。
佐野
すごい…!
本間
僕がオーディションを受けた時は渡邉暁雄先生がいらっしゃった。そのオーディションが先生の初仕事だったそうです。
堂阪
渡邉先生が第2 代音楽監督・常任指揮者になると、プログラムの傾向がガラリと変わりましたね。シベリウスやマーラーに都響が集中的に取り組んだのも渡邉先生とです。マーラー・オーケストラとしての都響の伝統は渡邉先生が作った。
本間
当時は聴衆もプレーヤーも、マーラーのことをよく知らないし、闇の中を手探りするようでした。
堂阪
その後は、若杉弘さんもベルティーニさんもインバルさんもツィクルスをやった。インバルさんは2回ツィクルスをやりましたね。何度やっても毎回新鮮。指揮者が違えば、アイディアも違うので大変でしたけれど。
佐野
私はとにかくインバルさんのインパクトがものすごく強かった。マーラーよりもインバルが出てくる感じ……。
本間
僕はインバルさんのマーラーってとてもオーソドックスだと思います。作曲者の意図をよく理解していて、マーラーの大きさがとてもよく表れていた。インバルさんは面白い人でしたね。練習の合間に、1人でアメ横に行って焼き鳥を食べていたり(笑)。
堂阪
上野の街によく馴染んでましたよ。
―この5名の皆さんが全員一緒に出演されていたのが2012年3月、インバル指揮マーラー公演でした。そしてこの月は、堂阪さんと本間さんの都響最後のステージとなりましたね。
佐野央子
本間
僕にとっての最終試合。《亡き子をしのぶ歌》は、僕のCの音で始まるのだけれど、あの瞬間は「ああこれで最後か」と、一瞬グッと構えた。自分で言うのも恥ずかしいですが、あの晩は、僕が都響で吹いた全公演のなかで、一番上手に演奏できました。本当に幸せなことだと思います。
小池・佐野・西川
素晴らしいです! (拍手)
堂阪
僕は、都響最後の公演は自分のなかでどういう感情が起こるのか、といろいろと想像していました。でもね、全くそれまでと変わらないというか、これで終わりという感じがしませんでした。一つの区切りではあるけれど、音楽は続けていくわけですし、あまり感情的に変化はなかったかな。
小池
周りの方が感傷的になりましたね。寂しくなってしまって……。
―小泉和裕さんは、1986年から指揮者、首席指揮者、首席客演指揮者、レジデント・コンダクター、そして終身名誉指揮者として長いお付き合いですね。
小池
小泉さんは都響のことを自分のオーケストラだと思ってくださっている感じがよく伝わってきます。いろんなオケを振っていらっしゃるけれども、都響は特別に思ってくださっている感じがします。
堂阪
とにかく付き合いが一番長い。だから、都響が困った時に力になってくれる。急に指揮者が倒れた時などは、空いていれば必ず駆けつけてくれます。「困った時の小泉さん頼み」という言葉が出るくらい、楽団も頼りにしていますね。
―2002年入団の3人は、当時の音楽監督のガリー・ベルティーニさんとの思い出も深いのではないでしょうか。
西川圭子
小池
ベルティーニさんは楽員を一人一人名前で呼んでくださいました。私のことも2回目のリハで覚えてくださって。女性は名前、男性は名字で呼ぶんですよね。
佐野
え、私は「佐野さん」って名字で呼ばれてたんですけれど(笑)。
小池
ベルティーニさんは言葉でよく説明する方でした。真面目で、あまり冗談は言いませんでした。
西川
音楽を精密に作り上げて行くタイプでしたね。細かい要求も多かったので、とても神経を使いました。インバルさんになった時は、違いに戸惑いつつも、明るくて大きな音楽作りもいいな、と思いました。
―その他印象に残る指揮者の方々のエピソードはありますか。
西川
私はジェイムズ・デプリーストさんの目がすごく好きでした。いつもリハーサル室に少し早く来るのですよね。そして指揮台からウォーミングアップしている皆の様子をじっと見ていて、目が合うとニコッとしてくれて。
堂阪
若杉弘さんは最終的に9年間いらして、長かったですよね。マーラー・ツィクルスもやりましたし。二度とやらない曲もたくさんやらせてもらいました。楽員のなかへ積極的に入ってこられる方だった。休憩時間にも自分から入ってくれました。
西川
現在ではヤクブ・フルシャさんも楽員のなかに入ってきてくれる人。休憩中にリラックスして一緒にコーヒーを飲んでいますね。女性の楽員がたくさん集まってきます(笑)。
―2015年4月、第5代音楽監督に大野和士さんが就任されました。大野さんは、1984年、都響のファミリーコンサートで指揮者としてデビューされましたね。
堂阪
彼を都響に呼ぼうという動きは、僕らの世代からありました。インバルさんがプリンシパル・コンダクターだった頃、次の指揮者を考えていかなければならない時期に、日本人指揮者としては大野さんを推す声がありました。
本間
2006年の《火の鳥》の公演で楽員からの評判が高く、音楽監督への機運が高まったようですね。
堂阪
早くから彼は有望な若手で、早めに押さえておきたい、と。10年以上の月日が流れ、やっと実現しましたね。これからが楽しみです。
―では最後に、現役の皆さんから、これからの抱負をいただけますか?
小池
都響は、あまり知られていない曲や現代の作品などにも挑戦してきました。そういったプログラムでも、お客様も臆せずにどんどん聴きにいらしていただけるよう、どんな曲にも一生懸命演奏していきたいです。
佐野
今は私たちより若い楽員がどんどん入って来ています。先輩たちから受け継いできた「都響」としての思いや響きを、私たちの世代が次の世代へとしっかりと繋いでいき、向上を続けていきたいですね。
西川
都響がこれからも発展していくためには、優れた指揮者の方々と良いプログラムを組み、楽員が音楽に集中できる環境づくりも大切だと思っています。海外公演も鍛えられる場ですので、積極的に取り組んでいきたいと思います。