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語り継ぐ都響|楽譜で読む都響の50年

草創期から森正時代まで

河内健次(こうち・けんじ)
都響在団 1965年3月1日〜 1995年3月31日

保坂 崇(ほさか・たかし)
都響在団 1965年3月1日〜 2000年3月31日

創立50周年を記念して、歴史を振り返る「月刊都響」での連載企画をご覧いただけます。
第1回は、都響創設時の事務局メンバーであった河内健次さんと保坂崇さんに、当時のことを伺いました。

草創のころ

河内 私たち2人は、もともと東京都の職員でした。私の場合、都立日比谷図書館に居た時期に視聴覚資料収集の仕事があり、レコード収集に携わりました。当時はSPからLPへの移行期で、オーディオ装置も貴重でしたから、図書館が音楽家を解説者に招いてレコードを聴く、というレコード・コンサートをやったのですね。そこで作曲家の芥川也寸志さん、團伊玖磨さん、黛敏郎さん、声楽家の長門美保(ながとみほ)さんなど、多くの音楽人とつながりができました。
 その後、教育庁へ異動して広報を担当、オリンピック事業にも関わりました。そんな中、1964年秋に東京都がオーケストラを作る、と発表があり、都の職員からv事務職員を募ったのですね。それで応募してめでたく合格(笑)。
 翌1965年2月1日に財団法人東京都交響楽団が設立され、3月1日に私たち2人が採用された。それで4月1日にオーケストラを始動。これは正直しんどかったですね。準備期間が全く足りなくて。
保坂 私も東京都の職員で、出納長室、つまり会計関係の仕事をしていました。もともとアマチュア・オーケストラでオーボエを吹いていまして、もちろんプロの方に比べられるものではなかったですけれど、興味はあった。ですから、私もオーケストラの職員募集に応募しました。
 出納長室に居た経験が、3月1日から大いに役に立ちました。初度調弁(しょどちょうべん)と言いまして、組織や施設の立ち上げに必要な物品を揃えるわけです。机から椅子から、小さなものは鉛筆や消しゴムに至るまで。いろいろと業者さんに来ていただいて、見積もりを出してもらって、とにかく3月中に全部収めてください、と。東京文化会館(1961年4月落成)内に設置する事務所や楽員室はまだ工事中で使えなかったですから、4階の小さな部屋が都響の事務所で。購入した物品は空いているスペースに机から何からともかく押し込んだ(笑)。
 問題は楽器ですよ。楽団の楽器として、ティンパニやコントラバス、木管の特殊楽器などを揃えないといけない。当時の楽器店の方々には本当にお世話になりました。ただ、東京都がオーケストラを作るらしい、という話が出た時点で楽器屋さんは前もって調達していたみたいですね。ほとんどが外国製(輸入品)ですから、普通なら1ヵ月で揃うわけがない。
 ともあれ4月1日に楽員さんが来て練習を始めるのに、楽器がありません、では話になりませんから、必死でした。でもやっぱり楽器が多少足りなくて、アマチュアの都民交響楽団に借りたりして、何とか間に合わせることに。オーケストラのもう一つのツールである楽譜も似たりよったりの状況で。河内さんと2人、何日も徹夜して、頑張りました。

苦難の時代

―――1965年1月に楽員のオーディションがあり、一次採用は44人(徐々に増員して10月の創立記念演奏会時には57人)。他の楽団からの引き抜きを行わず、楽員は全て公募方式で採用、平均年齢24歳、というメンバーでした。4月3日に結団式、ハインツ・ホフマン(常任指揮者)、大町陽一郎(専属指揮者)という体制で、4月5日に大町さんの指揮で練習開始。

河内 それからが苦難の時代で。もともと、1964年秋に東京都がオーケストラを作ると発表した時点で反対の声がありました。1962年に読売日本交響楽団ができて東京のオーケストラ地図は変化していましたし、同じ1964年にはTBSとの専属契約が解消したため東京交響楽団が解散するということもあって(現在の東京交響楽団は再結成されたもの)、社会問題になっていたのですね。公的な団体を作って民間を圧迫するよりも、民間に補助金を出すべきだ、という話は出てくるわけです。
 都響は、東京オリンピック(1964年10月10日~ 24日)の記念文化事業として設立されましたが、オリンピック後、東京都の財政は逼迫していました。公共投資にお金をつぎ込んで、公害問題など、特に水資源問題への対応が遅れていた。当時の東京都は夏になると渇水が続いていたので、その対策が先だろうと。
 都響が設立された1965年の夏、東京都議会議員選挙があって、政党勢力図が一変。後に革新都政と呼ばれる時代が始まるのですが、それまで東龍太郎(あずまりょうたろう)都知事(都響・理事長)が行った事業は全て批判の対象になりました。当時、東京都には外郭団体が数多くあったので、外郭団体等特別調査委員会がいくつかの団体の調査を始めた。その対象に都響も含まれたのです。

保坂 そんな中で、10月1日の都民の日に創立記念演奏会を行いました。

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ハインツ・ホフマン
(常任指揮者/在任1965年4月~ 67年3月)

創立記念演奏会
(1965年10月1・2日/東京文化会館)

―――10月1日に創立記念演奏会(関係者向け)。大町陽一郎指揮で『魔笛』序曲、ハイ ンツ・ホフマン指揮で《ジュピター》とヒンデミットの《気高い幻想》。翌2日が第1回演奏 会(一般公開)。全てホフマン指揮で、《ジュピター》、《皇帝》(マックス・エッガー独奏)、 《気高い幻想》でした。

保坂 正直なところ、ちょっと時期が早かった。あまり高い評価はいただけませんでした けれど、公開練習の時など瑞々しい演奏に何度も感動しましたし、オーケストラの将来的 な可能性はとても大きいな、と思いました。
 ホフマンさんの指揮は、ある程度楽員の自主性に任せて、音楽を作っていくやり方。 ですから当時の都響のように、一人ひとりはプロだけれど、合奏経験がほとんどない、と いう団体では難しかったかもしれません。都響がもっと成熟した段階で彼を迎えていれば、 また違った局面が生まれたと思います。

河内 1965年の暮れに外郭団体等特別調査委員会の結論が出て、都響は都民のためのオーケストラとして存続、ただし事業を縮小し、都民音楽会とスクールコンサート(子ども向けの音楽鑑賞教室)の2本立てで活動すること、と決まりました。

保坂 そのため1966年度は一般の演奏会はゼロ。低料金の都民音楽会を都内各地で行い、スクールコンサートは1年間で120回くらいやりましたね。

河内 1967年3月にホフマンさんも大町さんも退任、楽団長を務めた作曲家の諸井三郎さんも去ることになりました。音楽的な成果を云々できる以前の段階でしたから、何とも残念であったろうと思います。

写真01

創立記念演奏会プログラム/練習風景を収録したソノシートが添付された

森正・初代音楽監督の時代

―――1967年度から森正さんの時代が始まります。

森 正
(初代音楽監督・常任指揮者/
在任1967年4月~ 72年3月)

河内 都響としては、後継の指揮者をいろいろ探した中で、森正さんが京都市交響楽団での任期が終わるというので、もうこの方以外にないだろうと。京響も自治体が作ったオーケストラですから、そういう楽団では行政とのやりとりが必要なのだ、と森さんはよくご存じでした。それを承知の上で都響へ来てくださったのですね。「音楽監督・常任指揮者」という称号で、都響としては初めて「音楽監督」としてお迎えしたわけです。
 この時期、幸いなことに批判的な空気が収まり、東京都からの予算の増額が認められ、楽員の増員も始まりました。
 森さんの功績の第一は、定期演奏会をスタートさせたこと。1967年4月1日付で着任されて、第1回定期演奏会を5月30日に行っています。森さんとしては、オーケストラが定期演奏会をやらないのは全くナンセンスで、存在意義にかかわる。何としてもやろう、ということでした。この時に定期演奏会を始められなかったら、果たしてどうなっていたか。森さんは、本当に都響が今あることの大貢献者だと思います。
 定期演奏会の中でシリーズを始め、「オペラ・シリーズ」では『蝶々夫人』(1967年11月)と『トスカ』(1969年3月)を上演形式でやり、「ベートーヴェン・チクルス」(1968年5月~ 70年1月)では交響曲全曲を演奏しました。当時は文部省「青少年のための巡回オペラ」があって、先ほどの『蝶々夫人』をもって全国の府県を3年ほどかけてまわる仕事もやりました。東京以外の人にも知っていただく、地方の新聞にも「東京都交響楽団」の名前が載る、といったことを森さんは大事にしていました。
 当初は予算が少なくてソリストを起用できず、指揮者とオケだけの演奏会が多かったのですが、森さんはそれじゃいかん、と。徐々に経費を確保して、「管楽器シリーズ」(1968年6月~ 69年1月/3回)では、内外の管楽器ソリストを招いて協奏曲を組み込んだ演奏会をやっています。

保坂 森さんは厳しい方でしたから、オーケストラにプロとしての緊張感を非常に要求していた気がします。リハーサルでも、必要とあらばパートごとの分奏もよくやっていました。
 ただそういう形のことだけではなくて、もっとプロのオーケストラとしての心情、気持ちの持ち方が大事なのだ、ということを理解してほしかったのだと思います。ですから森さんの在任期間は、ピリピリとした雰囲気がありました。ただ、オーケストラのアンサンブル能力をゼロから始めて向上させようとした時期でしたから、森さんのアプローチは必要だったのだろうと。
 次の渡邉暁雄さんの時代になると一気に雰囲気が変わり、解放された感じになりましたけれど、土台として流れているもの、音楽を作る上での基本は変わらなかった。そういうものを森さんは残していただいた気がします。

(構成/友部衆樹 月刊都響2015年4月号より転載)