都響マエストロ列伝
ガリー・ベルティーニ
ガリー・ベルティーニ
©竹原伸治
1998~2005年に第4代音楽監督を務め、都響に世界レベルのオーケストラへの扉を開いたガリー・ベルティーニ。マエストロの業績を振り返るとともに、三界秀実(首席クラリネット奏者)に思い出を聞きました。
ガリー・ベルティーニ
Gary BERTINI (1927.5.1 ~ 2005.3.17)
1981年9月18日 | 都響に初登壇 |
1998年4月 | 第4代音楽監督就任 |
2000年4月~ 04年5月 | ベルティーニ=都響/マーラー・シリーズ2000 ~ 2004 |
2004年5月30日 | 都響を指揮した最後の演奏会 (「マーラー・シリーズ」第10回/交響曲第9番) |
2005年3月 | 音楽監督退任 |
2005年3月17日 | テルアヴィヴで逝去 |
2005年4月 | 桂冠指揮者の称号を贈る |
1927年生まれ。幼いころイスラエル(当時はイギリス委任統治領パレスチナ)へ移り、1951年からパリ音楽院で学ぶ。1955年にイスラエルへ戻り、同年イスラエル・フィルへデビュー。1960年の同フィル演奏旅行でカルロ・マリア・ジュリーニと共に初来日を果たしている。エルサレム響、スコティッシュ・ナショナル管、デトロイト響、ケルン放送響(現WDR響)などのシェフを歴任。この間、1973年にベルリン・フィルへデビュー。オペラではフランクフルト歌劇場音楽総監督や新イスラエル・オペラ芸術監督を務め、パリ・オペラ座やミラノ・スカラ座でも活躍した。
ベルティーニは、ケルン放送響を率いて東京で行った連続演奏会(1990 ~ 91年)をはじめ、日本ではマーラーの名演で知られるが、地元イスラエルやイタリア、フランスではオペラ指揮者として声望を得ていた。
都響音楽監督として
都響への初登壇は1981年9月。ベルリオーズ《幻想交響曲》、ベートーヴェンの交響曲第5番《運命》、マーラーの交響曲第6番《悲劇的》などを採り上げたが、中でも《悲劇的》は圧倒的な演奏で聴き手に鮮烈な印象を残した。続いての共演は1985年2~3月、2週間のうちにマーラーの第1番《巨人》、第9番、第5番を連続演奏。1993年12月にはブラームス《ドイツ・レクイエム》、ベートーヴェンの第9番《合唱付》で声楽付き大作における統率の冴えを示した。
1998年4月、満を持して都響第4代音楽監督へ就任。この時期、N響ではシャルル・デュトワが音楽監督(1998~2003)に、読響ではゲルト・アルブレヒトが常任指揮者(1998~ 2007)に就いており、期せずしてビッグネームが東京に参集。今日、欧米の一線級の指揮者が日本のオーケストラのシェフに就くことは珍しくなくなったが、その先駆けであった。
ベルティーニは都響への就任当初、マーラーの第2番《復活》、第3番、第5番、第6番《悲劇的》をはじめ、ブラームスやモーツァルトも指揮。そしてラヴェル《ダフニスとクロエ》、ドビュッシー《海》など自らのもう一つのアイデンティティであるフランスものも採り上げた。
そして2000年4月、5年間にわたる壮大なプロジェクト「ベルティーニ=都響/マーラー・シリーズ2000 ~ 2004」がスタート。埼玉県と横浜市の芸術文化財団が都響と提携、年2回(春/秋)のペースで埼玉会館と横浜みなとみらいホールの2会場で公演、マーラーの全交響曲と主要な歌曲を演奏するもので、音楽面はもちろん、公立ホールやオーケストラの運営面でも話題を集めた。
ベルティーニが遺したもの
ベルティーニは、都響に対して「世界のスタンダード」を初めて示した人だったという。オーケストラというものは、指揮者が黙っていても、アンサンブルや響きのバランス、音色の対比など基本的なことは自分でできなければいけない、とメンバーが持つべき責任感を喚起した。
春と秋が恒例だった「マーラー・シリーズ」は、2004年のみ5月に2つの公演が行われ、当初の予定より半年早く完結。交響曲第9番(5月30日)が都響との最後の共演となった。
それから約10ヵ月、病が発覚してからわずか1ヵ月半後の2005年3月17日、ベルティーニは急逝。都響は3月24日の第604回定期演奏会において、ブリテン作品をマーラーの交響曲第5番より「アダージェット」に差し替え、哀悼の意を表した。
ベルティーニ=都響のマーラー録音はシリーズ中盤からスタートしたため、フォンテックからリリースされた『マーラー:交響曲選集』には交響曲第1、2、3、5番が欠けている。2005年度から都響桂冠指揮者になることが決まっていたマエストロは、この4曲を改めて採り上げ、全集録音を完成することに意欲を燃やしていたという。
音楽監督在任7年。指揮者&オケともに、高みを目指したステップアップの最中に、マエストロが去らざるを得なくなったのは非常に残念であったが、ベルティーニと都響の物語はそこで終わったわけではない。今日の都響がもつ俊敏なアンサンブル、明晰な響きによる洗練された造形、熱いパッションと理性との見事なバランス……などを耳にすると、マエストロが蒔ま いた種子は高い次元で育ち、発展を続けているように思う。
ガリー・ベルティーニの思い出 マーラー演奏の遺伝子
三界 秀実
MIKAI Hidemi
首席クラリネット奏者( 入団/2003年4月1日)
ベルティーニさんとの出会いは、マーラーの交響曲第5番(2001年4月)です。当時、私は新日本フィルに在籍していて、ベルティーニ=都響の「マーラー・シリーズ」第3回にエキストラとして参加しました。
マエストロがかつてケルン放送響と東京で行った連続演奏会(1990 ~ 91年)は聴けなかったのですが、テレビ放映を観てすごく感動しましたし、自分にとって彼はアイドルのような存在。とても緊張してリハーサルに臨んだのを覚えています。
指揮台のベルティーニさんは、そこにマーラー本人がいる、としか思えない存在感がありました。リハーサルが進むうちに、オーケストラが彼の色に染まっていって、演奏に全く不安がなくなっていく。個人的に「この音型が難しいな」とかはあるわけですが、ひたすら音楽に集中できる。本番にも感激しましたし、こんな体験ができるなら、自分の人生に他のことは何もいらないな、と思いました。
それで都響へ移籍しました。たまたま都響で首席クラリネット奏者に欠員が出る時期で、幸運でしたね。シリーズの後半、演奏順に挙げるとマーラーの第6番《悲劇的》、第4番、第7番、《大地の歌》、第8番《千人の交響曲》、第9番を演奏することができました。
ベルティーニさんは既に70歳を超えていましたけれど、お会いする度に進化している。オーケストラも指揮者との関係が練れてきて、シリーズが進むごとにクオリティがどんどん上がっていく。とても幸せな時間でした。
音楽とは何か、マーラーはどう演奏するべきか、それまで漠然とイメージしてきたものを、ベルティーニさんに全て理路整然と説明していただいた気がします。言葉ではなく、彼の表情やしぐさから細部まで伝わってくる。都響にはそれ以前から、渡邉暁雄、若杉弘、インバル、といったマエストロによるマーラーの積み重ねがあったわけですけれど、さらに濃厚で繊細な演奏伝統の遺伝子を私たちに遺してくれた気がします。ベルティーニさんと演奏できたのは結果として3年だけだったのですが、他の何にも換え難い体験でした。
「マーラー・シリーズ」最終回の後、横浜みなとみらいホールの屋上でパーティがありました。この時、都響メンバーでビッグ・バンド「メトロ・ポップ」を組んで演奏したのですが、それを聴いていたベルティーニさんがご機嫌で、飛び入りで最後の曲「チュニジアの夜」を嬉しそうに指揮してくれた(上記写真参照/右端が本人)。「このバンドの名前を“ガリー・ベルティーニ&ヒズ・オーケストラ”と改称してくれたら、私はいつでも指揮に飛んでくるよ」と言ってくれて、今なお忘れられない、一番の思い出ですね。
(取材・文/友部衆樹 月刊都響2015年9月号より転載)
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