ザッカリー・ガイルス

トロンボーン

ザッカリー・ガイルス (ザッカリー・ガイルス) Zachary GUILES

(2022年11月1日入団)

アメリカ合衆国、バーモント州出身。
オハイオ州オーバリン音楽大学、マサチューセッツ州ニューイングランド音楽院卒業。
トロンボーンを元クリーブランドオーケストラ首席奏者ジェームズ・デサノ、元ボストン交響楽団奏者ノーマン・ボルター各氏に師事。
2012,2014年タングルウッド音楽祭、2013年ノアフォーク室内楽音楽祭に奨学生として参加。
ユタ州ユタシンフォニー副首席奏者、バージニア州リッチモンド交響楽団首席奏者を経て2022年東京都交響楽団のトロンボーン奏者として入団。2019年に来日後、アンサンブル、オーケストラを中心に演奏活動を行う。

私の音楽はじめて物語

インターロッケン・アーツ・<br />
アカデミーで(16歳)
インターロッケン・アーツ・
アカデミーで(16歳)
トロンボーンとの出会い

 生まれたのはアメリカ東部のメリーランド州ですが、1歳で北東のバーモント州へ移り、そこで育ちました。父はエンジニアですが、とても音楽好きで、地域で合唱指揮をやり、ピアノを弾き、管楽器はほぼ全部演奏できる人でした。ですので家にはいつも音楽があり、5歳から父にピアノを習い始めました。
 6歳の時、通っていたデイケア(日本の幼稚園か保育園に当たる)にトロンボーンを持ってきた人がいて、その楽器に興味を持ちました。まず音色を好きになり、スライドを動かすのが面白かったのだと思います。それで父からトロンボーンのレッスンも受けるようになりました。
 最初はトロンボーンの方が自分より数センチ背が高かったですね。スライドで最も遠い第7ポジションには手が届きませんでしたが、練習していた楽器はバルブ付きのタイプでしたので、困難なく音を出せました。父のレッスンはあまり厳しいものではなく、吹くのが楽しかったので続けられた感じですね。
 バーモント州にはユース・オーケストラがあり、年齢別に3ランクあって、一番若い小学生~中学生のグループに最年少の8歳で参加しました。ドヴォルザークのスラヴ舞曲第8番を演奏、メロディとハーモニーの美しさがとても気に入ったことを憶えています。

音楽の道へ

 10歳ころから父とモントリオール響やニューヨーク・フィルを聴きに行くようになり、12~13歳で漠然と音楽の道へ進みたいと考え始めました。当時、数学と音楽が得意でしたが、父がエンジニア、叔父が小学校で音楽の先生をしている姿を見て、自分はその方面に向いているとは思えなかった。
 それでインターロッケン・アーツ・アカデミー(高校/全寮制/ミシガン州)へ進学しました。音楽家になる道を選んだわけですが、両親は反対することなく、逆に背中を押してくれた。そのことは今でも感謝しています。
 インターロッケンではデイヴィッド・メイソンさん(現・都響ヴィオラ奏者)の1歳上で、後にニューイングランド音楽院でも一緒になりました。当時はあまり関わる機会がなかったのですが、今、こうして同じオーケストラで演奏しているのは不思議な縁を感じます。
 インターロッケンのカリキュラムは良くできていて、一般教科と音楽をバランスよく学ぶことができました。トロンボーンを師事したトーマス・リコボーノ先生との出会いは大きく、また音楽理論のジョン・ボイル先生の授業も印象に残っています。ボイル先生には「音楽をコンテクスト(文脈)で捉える」こと、つまり自分のパートの音符だけでなく、ハーモニーや休符、さらには作曲家の思考を「読む」ことの大事さを学びました。
 高3の時、学外の先生にプライベート・レッスンを受ける機会があり、その1人がジェイムズ・デサーノ先生(元クリーヴランド管首席トロンボーン奏者)でした。素晴らしいレッスンだったので、先生が教えているオーバリン音大(オハイオ州)へ進学。デサーノ先生は、トロンボーンの音を人間の声にたとえることが多く、攻撃的ではなく、リラックスしたよくブレンドされた音色を目指すことを教えられたと思います。
 在学中にノーマン・ボルター先生(元ボストン響トロンボーン奏者)のレッスンを受け、先生に師事するためニューイングランド音楽院へ進みました。それまでは正確に演奏すること、良い音を出すことを心がけていましたが、ボルター先生の教えは哲学的。「曲と自分とのつながり」「作曲家の意図」はもちろん、「自分のこれまでの経験を表現にどう貢献させるか」「今の音はなぜその音色だったのか」「あなたは作品と自分に忠実であったか」などを常に問われるレッスンだったと思います。
 2012~14年は、毎年夏にタングルウッド音楽祭またはノーフォーク室内楽音楽祭へ奨学生として参加。そこへ行くたびに、自分の音楽のレベルがぐんぐん上がっていく実感を持ちました。
 2014年からアメリカ各地でオーディションを受け始め、同年ユタ響へ副首席奏者として入団(22歳)。ティエリー・フィッシャーによるマーラー・シリーズが始まったところで、交響曲第1~4番を演奏、さらにバルトーク《管弦楽のための協奏曲》やシュトラウス《英雄の生涯》など大曲が多く、とても勉強になりました。
 ユタ響は1年契約でしたので、翌年、オファーがあったリッチモンド響(バージニア州)へ首席奏者として移りました。リッチモンド響は規模が小さく、教育プログラムなどの演奏が多かった。年52週のうち40週勤務で、つまり3ヶ月は休職状態。規模や演奏水準としてはユタ響ほどの満足は得られませんでした。

日本へ

 3年ほど在籍したリッチモンド響を退団することを決意し、2018年夏に日本へ。ニューイングランド音楽院で出会った妻(トランペット奏者の富岡彩乃さん)が兵庫芸術文化センター管へ入団することになったので、2人で日本へ引っ越して新たなチャレンジに挑むことにしました。今のアメリカは治安が悪化して銃犯罪などが増え、政治的問題も多く、住みにくくなっていることも背景にありました。
 日本ではまずフリーランスとして活動、読響や大阪フィル、オーケストラ・アンサンブル金沢、新日本フィルなど各地でエキストラをさせていただき、並行して多くのオーディションを受ける日々でした。
 2022年春に都響のオーディションを受け、同年11月に入団。都響はシリアスなものから演奏機会が少ない作品まで、レパートリーが素晴らしい。楽員の意識が高く、ルーティンワークをせず常に真剣に音楽に取り組んでいます。自分にとっても、毎日刺激が大きいですね。早くオーケストラにたくさん貢献できる奏者になって、都響の仲間たちと良い音楽を奏で続けたい! と考えています。

(『月刊都響』2024年5月号 取材・文/友部衆樹 通訳/等松春夫)

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