楽員紹介 - 都響について
クラリネット 首席奏者
サトーミチヨ (さとーみちよ) Michiyo SATO
(2000年8月1日入団)
12歳よりクラリネットを始める。クラリネットを村井祐児、鈴木良昭、大森勇の各氏に師事。東京藝術大学卒業、同大学院修了。第9回、12回日本管打楽器コンクール入賞。第1回多摩フレッシュコンクール第1位。第4回日本木管コンクール第1位。朝日新聞賞、兵庫県知事賞を受賞。第63回日本音楽コンクール第2位。E.ナカミチ賞受賞。
これまでに都響、新日本フィル、東響などと共演。東京藝術大学管弦楽研究部非常勤講師を経て、現在、都響首席クラリネット奏者。
これまでに都響、新日本フィル、東響などと共演。東京藝術大学管弦楽研究部非常勤講師を経て、現在、都響首席クラリネット奏者。
私の音楽はじめて物語
小2で高松市(香川県)へ引っ越しました。そのころからエレクトーンのコンクールに参加して中国四国大会や西日本大会で入賞するようになり、子どものうちに指導者の資格もいただけたので、このままプロのエレクトーン・プレイヤーになるんだろうな、と思っていました。
地元の中学に進み、吹奏楽部へ。フルートかトランペットか打楽器をやりたかったのですが、抽選に外れて全部ダメ。残ったのはクラリネットか、ホルンやテューバ、コントラバス。自分としてはメロディをやらない楽器はあり得なかったので、仕方なく(?)クラリネットを選びました。ところが同期10人くらいのうちで自分が一番ヘタで(笑)。私は3歳から音楽やってきたのに、と悔しくて、すごく練習しました。
中2で東京(府中市)に戻り、転校先の中学校でも吹奏楽部へ入りました。エレクトーンも続けていましたが、当時の楽器は音量や音色の変化に制限があり、例えば右手だけ強調する、などができなかった(現在はもっと機能が上がっていますが)。楽器に限界を感じていたのと、クラリネットが面白くなってきたのが重なって、エレクトーンをあまり弾かなくなってしまいました。
ある時、家族みんなに叱られまして。「最近、部活ばかりに一生懸命で、エレクトーンを練習してない。これまで10年もやってきたのにどうするんだ」と。それで遂に「エレクトーンを辞めたい。クラリネットをやっていきたい」と言って、ウチの中は大騒動に。何とか認めてもらったものの、クラリネットをどう頑張ればいいのか分からない。そんな時、吹奏楽部顧問の市川俊行先生に「君は音大へ行きたいの?」と声をかけられて。
以前、私が進路希望の作文に「音楽関係の仕事をしたい」と書いたのを見てくださったのですね。音大や藝大へ行くのなら、ソルフェージュや楽典もあるし、楽器だけが上手では入れない。高校も進学校ではなく近くの学校へ進んで、時間を全てレッスンと練習に当てないと間に合わないよ、などいろいろアドヴァイスをいただきました。
そこまでしなければいけないのかな、と思いましたけれど、本当にそうでしたね。地元の都立高校へ進み、高1から大森勇先生と村井祐児先生に師事。高校時代は部活動もアルバイトもせず、受験準備に明け暮れました。東京藝大へ進学、引き続き村井先生と鈴木良昭先生にお世話になりました。
大学院を修了後、東京藝大管弦楽研究部に2年半在籍、2000年に都響へ入団。何度もエキストラへ来て憧れていたオケでしたので、入れたのは嬉しかったですね。ただ首席としてのスキルがあまりに足りなかったので、すごく大変でした。学ぶべきことはまだまだ尽きないですが。
今、都響は充実していると思いますが、現状に満足せず、世界への発信を目指して努力を続けたいですね。
(『月刊都響』2014年11月号 取材・文/友部衆樹)