東京都交響楽団

Essay

ラフマニノフ再評価~証言でつづる受容史

山崎浩太郎 Kotaro YAMAZAKI(演奏史譚)

大ピアニスト

 セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)は、大作曲家であると同時に大ピアニストだった。
 日本の音楽評論家の草分け、大田黒元雄(1893~1979)は、1914年と24年の2回、ロンドンを訪れてラフマニノフのピアノ・リサイタルを聴いている。
 「1914年に初めて彼の演奏を私が聴いた時、ラフマニノフは41だったわけである。その時の彼が頭を五分刈にして恐ろしく長い身体を旧式なフロックコートに包んでいたことと、彼の顔つきから陰鬱な印象を与えられたことを私は記憶している」(『世界の名演奏家』大田黒元雄著、音楽之友社、1950年/なお文中の引用は以下も含めてすべて、字句を現代風に適宜変更している)
 この陰鬱な男のピアノ演奏は、圧倒的なものだった。「ピアニストとしてのラフマニノフはその生一本な力で人を圧倒した。彼ほど強い手首の力を持っていたピアニストは稀に相違ない。彼の大きな手は鍵盤を掩い、恐ろしく長い足はペダルを踏むのにピアノの下で窮屈がっているように見えた。恐らく彼ぐらい楽々とした態度で演奏したピアニストはすくなかろう。そして彼の驚嘆すべき力と微妙なタッチはスタインウェイのピアノからあらゆる音の色あいを作り出した」
 モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、シューマン、リストなどさまざまな曲を弾いたが、「しかし何といっても自分自身の作品を演奏する場合の彼は天下無双であった。たとえば《V. R. のポルカ》などの演奏は聴く者に思わずブラヴォーを叫ばせたほど目覚ましかったのである」
 そして、「アンコールに弾かれるまで聴衆が満足しなかった」自作曲があった。それは、op. 3-2の《前奏曲 嬰ハ短調》である。この曲の人気は、1892年モスクワでの作曲家自演による初演以来、熱狂的といってもいいほどの反応を、世界各地でまきおこしていた。
 大田黒は、「ピアノのために書かれた近代のあらゆる曲の中で、ラフマニノフの嬰ハ短調の前奏曲ぐらい知られているものはないであろう」と、『華やかなる回想』(大田黒元雄著、第一書房、1925年)に記している。家庭用のピアノ名曲集などに楽譜が含められていたためだが、なかでも自作自演は圧倒的な人気で、アンコールでこれを弾くまで、聴衆は帰ろうとしなかった。「この曲の持っている沈痛な感じはラフマニノフその人の象徴として、あながち相応しくはないものではない。なぜならラフマニノフの顔は、何人にもまずそういう印象をあたえるのである」
 しかし、あまりにポピュラーになりすぎたがゆえに、ラフマニノフ本人は、次第にこの前奏曲を弾くことを厭うようになった。大田黒はこの小品が「hackneyed piece(陳腐な曲)」になってしまった、とも述べている。「これは確かにラフマニノフの代表作となってしまっている。ラフマニノフはこの曲によって天下にその名を知られた。それとともに作曲家としての真のラフマニノフはこの曲の影に隠されてしまった」
セルゲイ・ラフマニノフ(1921年)
セルゲイ・ラフマニノフ(1921年)
Kubey-Rembrandt Studios
(Philadephia, Pennsylvania)

時代遅れの音楽

 陳腐。あまりに19世紀風にロマンティックで、時代遅れで大衆的。ラフマニノフの作品は、20世紀においては、そんなふうに見なされることも少なくなかった。ピアノ協奏曲第2番の人気が高いがゆえに、ハリウッドの映画音楽やムード音楽にそれを模したような響きが頻用されたことも、本家のイメージを安っぽいものにした。
 この時代の典型的なラフマニノフ観を、日本を代表する音楽評論家、吉田秀和(1913~2012)が1959年に書いた文章に見ることができる。「ピアノの名人、ラフマニノフには、会釈する必要があろう。ことに、2番か3番かの『ピアノ協奏曲』。あとの交響曲やピアノ独奏曲―『前奏曲集』が特に有名―は、もう、今日LPで買う必要はあるまい。この人も、今世紀の40年代まで生きていたが、まったく、19世紀ロマン派の音楽家だ。そうして、ピアノ協奏曲にしても、チャイコフスキーの後塵を拝しているにすぎない。だが、まったくあげないわけにもゆかない何かがある」(『名曲三〇〇選』吉田秀和著、ちくま文庫、2009年)
 「もう、今日LPで買う必要はあるまい」とは、まことに手厳しい。1960年前後の吉田は、作曲家・音楽学者の柴田南雄(1916~96)などと協力して「二十世紀音楽研究所」を設立、12音音楽の系譜に連なる最新の音楽の紹介と普及につとめていたから、時流に乗らない音楽には容赦がなかった。同書では、「安直な効果をねらうところが見えすいて」いるプッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』も、人気があまりに高いので無視できないことを、「この辺が、音楽のちょっと残念なところだろう」とし、「こういうオペラの名作は文学なら、よくっても《大衆文学全集》に収められるのが常識だろうに、音楽では《名曲三〇〇選》に入れないわけにはゆかない。そういうオペラや交響詩《シェエラザード》の好きな客が、現代音楽をききにこないといって、現代音楽は公衆から乖離してるといったって仕方がない。吉川英治の愛読者がカフカの小説やエリオットの詩を読まなくたって不思議ではなかろう」
 ラフマニノフもまた、吉川英治のような大衆文学的な音楽だといいたかったにちがいない。吉田は1970年前後になると、前衛音楽が袋小路にはまったと考えを変え、その推進者の座をおりて、やはり時代遅れの音楽と見なしていたブルックナーの交響曲の価値を認めたりするようになるが、ラフマニノフについては、最後まで積極的に評価することはなかったようだ。
 ただ、上記の引用にある「だが、まったくあげないわけにもゆかない何かがある」は、ピアノ協奏曲第2番と第3番以外の作品もさかんに聴かれるようになった現代を、無意識に予感しているような印象もある。

欧米における評価の変遷

 ラフマニノフの作品を、陳腐な大衆音楽と軽侮する傾向は、もちろん日本だけの現象だったのではなく、本場欧米においても同様だった。
 英国のデッカ・レコードの伝説的プロデューサーとして名高いジョン・カルショー(1924~80)は、自伝『レコードはまっすぐに』(山崎浩太郎訳、学習研究社、2005年)のなかで、「何かが彼の心をとらえたのなら、それがたとえ時代遅れであっても、それに対する熱意を口にすることを恐れるべきではない」と述べ、「私はそのことをラフマニノフに学んだ。彼の『安っぽさ』は1940年代半ばには軽蔑の対象となっていたが、今ではその真実の姿―とても才能があって真摯な、しかし売れない作曲家であり、同時にたまたま超絶的なピアニストでもあった―が、急速に認められつつある」としている。カルショーは若いときからラフマニノフ音楽の信奉者であり、音楽界に入ったきっかけも、レコード専門誌『ザ・グラモフォン』に、ラフマニノフについて書いた投稿が掲載されたのがきっかけだった。1948年には1冊の作品論を上梓している。カルショーによれば、それまでそのような研究書は、誰も書いていなかった。
 「ラフマニノフに対する『専門家の』態度は概して、絶望的に時代遅れだった。(略)ほとんどの学者たちは彼を真剣に考えようとはしなかったし、彼のオーケストラ作品に深い関心を持つ指揮者も―ユージン・オーマンディを例外として―ほとんどいなかった。(略)私の世代で音楽を好む者は、彼の音楽に心を通わせていた。しかし私たちの態度は、上の世代からは軽視されたのだ」
 ところが、やがて潮目が変わったという。「1960年代の半ばまでには、ラフマニノフの音楽は大衆的人気を保つだけでなく、後の世代の学者や音楽家たちによっても認められるようになった。彼らは、自らの時代に合わなかったこの作曲家の作品を信奉するのに、何のためらいもなかったのだ」
 時流とズレているからという理由で軽視する時代は、少なくともラフマニノフに関しては、1960年代半ばには終わったのだという。

正当に評価される時代へ

 その典型的な例として、ラフマニノフのオーケストラ作品の代表作、交響曲第2番があげられるだろう。この作品は、アメリカなどでは早くから一定の人気があったが、ラフマニノフの在世中から、各楽章をカットして演奏時間を10分ほど短縮することが慣例となっていた。作曲家本人は、このカットを内心では嫌悪していたが、演奏機会を増やすために、しかたなく認めていたのである。
 この作品を生涯に4度商業録音し、カルショーが例外的存在としているユージン・オーマンディ(1899~1985)も、当初はやはり短縮版を演奏・録音していた。しかし1973年12月の4回目の録音では、完全版を採用している。
 きっかけは、やはりこの作品を愛してやまなかったアンドレ・プレヴィン(1929~2019)が、ソ連を訪れてこの曲を演奏したとき、ソ連の名指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903~88)から全曲版の存在を教えられたことだった。1966年4月の初録音では短縮版を用いていたプレヴィンは、1973年1月の再録音で完全版を録音、オーマンディもこれに倣ったのである(肝心のムラヴィンスキー自身は、ラフマニノフをまったく録音していないのが面白いが)。
 現代では完全版を演奏するのがむしろ当然となり、聴衆もそれを受け入れている。カルショーと同じ1920年代生まれのプレヴィンが、そのきっかけとなったことは象徴的だ。
 そして平成に入る前後から、現代音楽でも調性音楽の復興の流れが広まりはじめると、ラフマニノフの音楽もまた、あるがままに、正当に評価される時代を迎えたのである。
CD
【CD】
ラフマニノフ自作自演~ピアノ・ソロ作品集

セルゲイ・ラフマニノフ(ピアノ)
〈録音:1925~42年〉
[RCA, SICC40226]
*ラフマニノフが1925年から1942年にかけてスタジオ録音した、自作のソロ16曲と他者作品をピアノ独奏用に編曲した9曲を収録した1枚。当時人気を誇った(現代ではそれほどでもないかもしれない)前奏曲 嬰ハ短調や《V.R.のポルカ》も含まれ、唯一無二と讃えられた名演を聴くことができる。
CD
【CD】
ラフマニノフ:交響曲第2番

アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団
〈録音:1973年1月3~4日〉
[ワーナー・クラシックス, WPCS23020]
*完全版復活の魁となった名盤。3回録音したうちの2回目で、きかせどころを心得たプレヴィンの指揮に身をゆだねて聴くことができる。プレヴィンという人もハリウッドで活躍したりジャズをひいたりしたことで妙に軽侮される時代があったが、現代ではその実力と業績が素直に評価されるようになった。
CD
【CD】
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番/ピアノ・ソナタ第2番

ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアノ)
ユージン・オーマンディ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
〈録音:1978年1月8日/1980年4月13日~5月11日〉
[RCA, SICC40213]
*ラフマニノフのスペシャリスト2人、ホロヴィッツとオーマンディの共演。ラフマニノフはピアノ協奏曲第3番に関しては、自分よりもホロヴィッツの演奏を高く評価していた。ホロヴィッツも、生前は19世紀的存在として芸術的には軽視される傾向があったが、ラフマニノフの作品同様に今は正当に認められている。