Essay
ショスタコーヴィチの「今」
増田良介 Ryosuke MASUDA(音楽評論)
作曲家像の大きな変化
来たる2025年はドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~75)の没後50年にあたる。この50年で、われわれにとってのショスタコーヴィチ像はずいぶん変わった。音楽史には数多くの作曲家がいるが、これはなかなか特異なケースと言えるだろう。
きっかけは、ショスタコーヴィチの秘密の回想録と銘打って1979年に出版されたソロモン・ヴォルコフ(1944~)編の『ショスタコーヴィチの証言』(日本語版は1980年、水野忠夫訳、中央公論社)だった。ショスタコーヴィチは、交響曲第5番やオラトリオ《森の歌》など、生前からその作品が世界中で演奏される大作曲家だったが、そのイメージは、ソ連において政府の方針に沿った作品を書き続ける御用作曲家、共産主義体制の優等生というものだった。ところが、ヴォルコフが生前に極秘でインタビューをして、その原稿を西側に持ち出して出版したという触れ込みのこの「回想録」は、ショスタコーヴィチが実は反体制的な立場の作曲家で、共産主義の勝利を称える作品だと思われていた彼の交響曲が、実は逆の意味を持っているというような内容だったのだ。
この本によってショスタコーヴィチ像は一転、ソ連体制、特にスターリン(1878~1953/ソ連の最高指導者)体制下で弾圧に苦しみ、その時代を音楽に刻み込んだ作曲家と考えられるようになる。こうしてあらためて脚光を浴びることにより、彼の作品が演奏、録音されることはぐんと増えた。そして、交響曲第5番は変わらず人気曲であり続けたが、かつてもてはやされた《森の歌》はまったく演奏されなくなる一方で、交響曲第8番や第11番《1905年》などがレパートリーとして浮上した。
ところが、出版の翌年に、『証言』は、ショスタコーヴィチが新聞などに発表した文章などをヴォルコフが切り貼りして、間にそれらしい文章、ショスタコーヴィチがもし言っていたらおもしろいだろうという文章(「私の交響曲は墓碑銘である」とか「ムラヴィンスキーは何もわかっていない」とか)を挟み込んで作った偽回想録だったことが、音楽学者のローレル・フェイ(1949~)によって指摘された。
だが、そのことによってショスタコーヴィチに対する見方が完全に元に戻ることはなかった。というのも、ショスタコーヴィチが体制派ではなく、どちらかといえば反体制的な作曲家だったということを裏付ける発言は、『証言』を偽書とする人々も含めて、生前のショスタコーヴィチの近くにいた人々から相次いだし、スターリンやジダーノフ(1896~1948/ソ連の政治家。前衛芸術に対する「ジダーノフ批判」を行った)を露骨に風刺したカンタータ《反形式主義的ラヨーク》のような、どう考えても反体制的な作品が出てきたりしたからだ。
ただ、このときにショスタコーヴィチに貼られた、「当局に危険人物とみなされ、ときには逮捕寸前にまで追い詰められながら、音楽にその苦悩を刻み、告発し続けた闘士」というレッテルは、共産主義の申し子のようなイメージに比べればずっとましだったとはいえ、今になって考えてみると、いささか単純で一面的に過ぎた。『証言』以後、ショスタコーヴィチの音楽の中のあれやこれやを強引にスターリンに結びつけるような「解釈」がいろいろと出てきたが(その元祖は『証言』にある「交響曲第10番第2楽章はスターリンの肖像である」という嘘の記述だった)、それらは根拠のないものだった。当時は情報が少なかったから仕方がなかった面もあるが、そこには、自分たちがそうあってほしいショスタコーヴィチ像が多分に投影されていた。
さて、『証言』から45年が経った。その間に、実はかなりの量の重要な新資料が公開されている。われわれは、それらを検討することによって、ショスタコーヴィチが実際にどのような作曲家で、彼の作品はどのようなものであったのかを、随時更新していかなければならないわけだ。しかしながら、『証言』のインパクトが強すぎたせいか、今も『証言』直後の時代からアップデートされていないような記述もときおり見受けられる。ということでここでは、次第にあきらかになってきた、反スターリンだけではないショスタコーヴィチの側面をいくつか紹介したい。
きっかけは、ショスタコーヴィチの秘密の回想録と銘打って1979年に出版されたソロモン・ヴォルコフ(1944~)編の『ショスタコーヴィチの証言』(日本語版は1980年、水野忠夫訳、中央公論社)だった。ショスタコーヴィチは、交響曲第5番やオラトリオ《森の歌》など、生前からその作品が世界中で演奏される大作曲家だったが、そのイメージは、ソ連において政府の方針に沿った作品を書き続ける御用作曲家、共産主義体制の優等生というものだった。ところが、ヴォルコフが生前に極秘でインタビューをして、その原稿を西側に持ち出して出版したという触れ込みのこの「回想録」は、ショスタコーヴィチが実は反体制的な立場の作曲家で、共産主義の勝利を称える作品だと思われていた彼の交響曲が、実は逆の意味を持っているというような内容だったのだ。
この本によってショスタコーヴィチ像は一転、ソ連体制、特にスターリン(1878~1953/ソ連の最高指導者)体制下で弾圧に苦しみ、その時代を音楽に刻み込んだ作曲家と考えられるようになる。こうしてあらためて脚光を浴びることにより、彼の作品が演奏、録音されることはぐんと増えた。そして、交響曲第5番は変わらず人気曲であり続けたが、かつてもてはやされた《森の歌》はまったく演奏されなくなる一方で、交響曲第8番や第11番《1905年》などがレパートリーとして浮上した。
ところが、出版の翌年に、『証言』は、ショスタコーヴィチが新聞などに発表した文章などをヴォルコフが切り貼りして、間にそれらしい文章、ショスタコーヴィチがもし言っていたらおもしろいだろうという文章(「私の交響曲は墓碑銘である」とか「ムラヴィンスキーは何もわかっていない」とか)を挟み込んで作った偽回想録だったことが、音楽学者のローレル・フェイ(1949~)によって指摘された。
だが、そのことによってショスタコーヴィチに対する見方が完全に元に戻ることはなかった。というのも、ショスタコーヴィチが体制派ではなく、どちらかといえば反体制的な作曲家だったということを裏付ける発言は、『証言』を偽書とする人々も含めて、生前のショスタコーヴィチの近くにいた人々から相次いだし、スターリンやジダーノフ(1896~1948/ソ連の政治家。前衛芸術に対する「ジダーノフ批判」を行った)を露骨に風刺したカンタータ《反形式主義的ラヨーク》のような、どう考えても反体制的な作品が出てきたりしたからだ。
ただ、このときにショスタコーヴィチに貼られた、「当局に危険人物とみなされ、ときには逮捕寸前にまで追い詰められながら、音楽にその苦悩を刻み、告発し続けた闘士」というレッテルは、共産主義の申し子のようなイメージに比べればずっとましだったとはいえ、今になって考えてみると、いささか単純で一面的に過ぎた。『証言』以後、ショスタコーヴィチの音楽の中のあれやこれやを強引にスターリンに結びつけるような「解釈」がいろいろと出てきたが(その元祖は『証言』にある「交響曲第10番第2楽章はスターリンの肖像である」という嘘の記述だった)、それらは根拠のないものだった。当時は情報が少なかったから仕方がなかった面もあるが、そこには、自分たちがそうあってほしいショスタコーヴィチ像が多分に投影されていた。
さて、『証言』から45年が経った。その間に、実はかなりの量の重要な新資料が公開されている。われわれは、それらを検討することによって、ショスタコーヴィチが実際にどのような作曲家で、彼の作品はどのようなものであったのかを、随時更新していかなければならないわけだ。しかしながら、『証言』のインパクトが強すぎたせいか、今も『証言』直後の時代からアップデートされていないような記述もときおり見受けられる。ということでここでは、次第にあきらかになってきた、反スターリンだけではないショスタコーヴィチの側面をいくつか紹介したい。
ドミトリー・ショスタコーヴィチ
(1950年7月28日/ヨハン・ゼバスティアン・バッハ没後200年祭にて)
Photo by Roger & Renate Rössing,
credit Deutsche Fotothek.
恋多き人ショスタコーヴィチ
まずは「恋多き人ショスタコーヴィチ」だ。そもそもショスタコーヴィチは、純粋なラブソングをいくつも書いている作曲家なのだが、彼は実生活でも相当に恋多き人だった。ショスタコーヴィチは3度結婚しているが、最初のニーナ夫人(1909~54)との結婚では、互いに自由な恋愛を許容していたので、ニーナと結婚していた間、そして彼女の早逝後も、仕事で出会った女性や自分の教え子など、さまざまな女性に愛を伝えている。その中にはかなり親密な関係になったケースもあったし、相手にされなかったケースもあった。
たとえば、7歳年下のエレーナ・コンスタンチノフスカヤ(1914~75)だ。ショスタコーヴィチは、1934年に、国際音楽祭で通訳の仕事をしていたエレーナと知り合い、急速に彼女との関係を深めていった。このときは、ニーナと離婚してコンスタンチノフスカヤと結婚する可能性も十分にあったようだが、彼が逡巡しているうちに、ニーナの妊娠が判明し、エレーナは去ってしまう。交響曲第5番にビゼーの『カルメン』からの引用があるのは、ショスタコーヴィチのもとを去ったあと、記録映画監督のロマン・カルメン(1906~78)と結婚していまやミセス・カルメンとなったエレーナへのメッセージだという説もある。
また、1950年代初頭に親しかったアゼルバイジャンのピアニスト・作曲家エルミーラ・ナジーロヴァ(1928~2014)は、もともとショスタコーヴィチの学生だった。交響曲第10番の作曲中に大量の手紙を送り続けたショスタコーヴィチが(エルミーラは返事をしたりしなかったりだったという)、この曲の第3楽章の中に、彼女の名前を「E-l(a)-mi-r(e)-A」→「E-A-E-D-A(ミ-ラ-ミ-レ-ラ)」として刻んだことはよく知られている。
作曲家のガリーナ・ウストヴォルスカヤ(1919~2006)は、ショスタコーヴィチの弟子とされることがあるが、彼女はそう言われることをはっきり拒否しているし、ショスタコーヴィチに対して、音楽家としても人間としても良い印象は持っていなかったようだ。しかし、ショスタコーヴィチはウストヴォルスカヤの才能を非常に買っていて、弦楽四重奏曲第5番にウストヴォルスカヤのクラリネット三重奏曲を引用している。結婚も望んでいたようだが、ウストヴォルスカヤはもちろん断った。
ニーナが世を去った4年後、ショスタコーヴィチはマルガリータ・カイノヴァ(1924~?)という、あまり音楽に関心のない女性と突然結婚し、いっしょにパリへも旅行したが、ごく短期間で別れている。マルガリータとの結婚は不可解なものとされてきたが、ショスタコーヴィチが、このような女性遍歴の中でたまたま結婚に至ったと考えれば、さほど不自然なものではなく見えてくる。
さて、このような恋愛遍歴をおもしろがるか引くかは人それぞれだろうが、これらが明らかになったことで言える重要なことが少なくともひとつある。彼の作品をどれもこれもスターリンに結びつけてしまうのは乱暴に過ぎるということだ。
正直、1990年代ごろには、きっとこれから《ラヨーク》のような反体制的な作品や、ショスタコーヴィチの反体制的な姿勢がはっきりとわかる文章も続々と出てきて、たとえば交響曲第5番や第10番に込められた告発の内容が明らかになるのではないか、などと筆者は予想していた。しかし、実際に出てきたのは、第2の《ラヨーク》でも体制批判の手紙でもなく、女性たちへの秘密のメッセージばかりだ。もちろん、これらの作品にスターリンに対する批判「も」含まれている可能性は否定しないが、少なくとも、恋愛が彼の創作においてこれほど重要な位置を占めている以上、ショスタコーヴィチが四六時中スターリンのことばかり考えていて、彼の作品は全部体制批判だというような考え方は一面的すぎると言わざるを得ないだろう。
たとえば、7歳年下のエレーナ・コンスタンチノフスカヤ(1914~75)だ。ショスタコーヴィチは、1934年に、国際音楽祭で通訳の仕事をしていたエレーナと知り合い、急速に彼女との関係を深めていった。このときは、ニーナと離婚してコンスタンチノフスカヤと結婚する可能性も十分にあったようだが、彼が逡巡しているうちに、ニーナの妊娠が判明し、エレーナは去ってしまう。交響曲第5番にビゼーの『カルメン』からの引用があるのは、ショスタコーヴィチのもとを去ったあと、記録映画監督のロマン・カルメン(1906~78)と結婚していまやミセス・カルメンとなったエレーナへのメッセージだという説もある。
また、1950年代初頭に親しかったアゼルバイジャンのピアニスト・作曲家エルミーラ・ナジーロヴァ(1928~2014)は、もともとショスタコーヴィチの学生だった。交響曲第10番の作曲中に大量の手紙を送り続けたショスタコーヴィチが(エルミーラは返事をしたりしなかったりだったという)、この曲の第3楽章の中に、彼女の名前を「E-l(a)-mi-r(e)-A」→「E-A-E-D-A(ミ-ラ-ミ-レ-ラ)」として刻んだことはよく知られている。
作曲家のガリーナ・ウストヴォルスカヤ(1919~2006)は、ショスタコーヴィチの弟子とされることがあるが、彼女はそう言われることをはっきり拒否しているし、ショスタコーヴィチに対して、音楽家としても人間としても良い印象は持っていなかったようだ。しかし、ショスタコーヴィチはウストヴォルスカヤの才能を非常に買っていて、弦楽四重奏曲第5番にウストヴォルスカヤのクラリネット三重奏曲を引用している。結婚も望んでいたようだが、ウストヴォルスカヤはもちろん断った。
ニーナが世を去った4年後、ショスタコーヴィチはマルガリータ・カイノヴァ(1924~?)という、あまり音楽に関心のない女性と突然結婚し、いっしょにパリへも旅行したが、ごく短期間で別れている。マルガリータとの結婚は不可解なものとされてきたが、ショスタコーヴィチが、このような女性遍歴の中でたまたま結婚に至ったと考えれば、さほど不自然なものではなく見えてくる。
さて、このような恋愛遍歴をおもしろがるか引くかは人それぞれだろうが、これらが明らかになったことで言える重要なことが少なくともひとつある。彼の作品をどれもこれもスターリンに結びつけてしまうのは乱暴に過ぎるということだ。
正直、1990年代ごろには、きっとこれから《ラヨーク》のような反体制的な作品や、ショスタコーヴィチの反体制的な姿勢がはっきりとわかる文章も続々と出てきて、たとえば交響曲第5番や第10番に込められた告発の内容が明らかになるのではないか、などと筆者は予想していた。しかし、実際に出てきたのは、第2の《ラヨーク》でも体制批判の手紙でもなく、女性たちへの秘密のメッセージばかりだ。もちろん、これらの作品にスターリンに対する批判「も」含まれている可能性は否定しないが、少なくとも、恋愛が彼の創作においてこれほど重要な位置を占めている以上、ショスタコーヴィチが四六時中スターリンのことばかり考えていて、彼の作品は全部体制批判だというような考え方は一面的すぎると言わざるを得ないだろう。
作曲家としての自意識を常に持っているショスタコーヴィチ
第2は、「作曲家としての自意識を常に持っているショスタコーヴィチ」だ。ショスタコーヴィチが、弦楽四重奏曲第8番において、交響曲第1番、ピアノ三重奏曲第2番、チェロ協奏曲第1番、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』といった過去の自作を引用していることは以前から知られていたが、2006年、それを凌ぐ作品があることが指摘された。
ショスタコーヴィチの最後の作品となったヴィオラ・ソナタだ。この曲の終楽章の第65小節から、おそらく15の交響曲すべて(第13番だけはよくわからない)が数珠つなぎに引用されているのだ。引用された部分は各交響曲の冒頭が多い。非常におもしろい話だが、2006年にピアニストのイヴァン・ソコロフ(1960~)が指摘するまで、このことは誰にも気づかれていなかったようだ。さて、この引用にはどのような意図があったのだろうか。
ショスタコーヴィチの声楽曲には、芸術家の苦悩や受難を扱う作品がたくさんある。交響曲第5番との関連が深い《プーシキンの詩による4つのロマンス》からの「復活」、交響曲第13番の第2楽章「ユーモア」、そして交響曲第14番、《ツヴェターエヴァの詩による6つのロマンス》、《ミケランジェロの詩による組曲》などのいくつかの楽章。自分自身とスターリン、あるいは政府当局との間の軋轢が反映しているであろう、権力者と芸術家の対立というテーマが多いが、歌曲《自作全集への序文とそれに対する短い考察》や、ソプラノとピアノのための5つのロマンス《風刺(過去の情景)》の「評論家に」「勘違い」のように、それとはあまり関係なさそうな作品もある。弦楽四重奏曲第8番もヴィオラ・ソナタも、これらの作品の系譜に連なると考えてよいのではないだろうか。
彼は、プーシキン(詩人/1799~1837)やアフマートヴァ(詩人/1889~1966)やミケランジェロ(彫刻家、画家、詩人/1475~1564)に連なる存在としての「芸術家としての自分」を意識し、それをメタ的に作品に取り入れた作曲家だったと言えるだろう。これは、自作をたくさん引用した交響詩《英雄の生涯》や、芸術論を作品に昇華した歌劇『カプリッチョ』を作曲したリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)と通じるところがある。
以上の2点から言えるのはこういうことだ。ショスタコーヴィチは、ひとりの男性としていろいろな女性を好きになり、作曲家として創作をする中でいろいろなことに悩み、その思いを作品の中に取り入れた。ショスタコーヴィチが一貫して表現していたのは個人的な感情であって、彼は、歴史年代記や叙事詩の書き手というよりもむしろ私小説的な作曲家だったのだ。そしてこれは、おそらく次の第3点とも関連する。
ショスタコーヴィチの最後の作品となったヴィオラ・ソナタだ。この曲の終楽章の第65小節から、おそらく15の交響曲すべて(第13番だけはよくわからない)が数珠つなぎに引用されているのだ。引用された部分は各交響曲の冒頭が多い。非常におもしろい話だが、2006年にピアニストのイヴァン・ソコロフ(1960~)が指摘するまで、このことは誰にも気づかれていなかったようだ。さて、この引用にはどのような意図があったのだろうか。
ショスタコーヴィチの声楽曲には、芸術家の苦悩や受難を扱う作品がたくさんある。交響曲第5番との関連が深い《プーシキンの詩による4つのロマンス》からの「復活」、交響曲第13番の第2楽章「ユーモア」、そして交響曲第14番、《ツヴェターエヴァの詩による6つのロマンス》、《ミケランジェロの詩による組曲》などのいくつかの楽章。自分自身とスターリン、あるいは政府当局との間の軋轢が反映しているであろう、権力者と芸術家の対立というテーマが多いが、歌曲《自作全集への序文とそれに対する短い考察》や、ソプラノとピアノのための5つのロマンス《風刺(過去の情景)》の「評論家に」「勘違い」のように、それとはあまり関係なさそうな作品もある。弦楽四重奏曲第8番もヴィオラ・ソナタも、これらの作品の系譜に連なると考えてよいのではないだろうか。
彼は、プーシキン(詩人/1799~1837)やアフマートヴァ(詩人/1889~1966)やミケランジェロ(彫刻家、画家、詩人/1475~1564)に連なる存在としての「芸術家としての自分」を意識し、それをメタ的に作品に取り入れた作曲家だったと言えるだろう。これは、自作をたくさん引用した交響詩《英雄の生涯》や、芸術論を作品に昇華した歌劇『カプリッチョ』を作曲したリヒャルト・シュトラウス(1864~1949)と通じるところがある。
以上の2点から言えるのはこういうことだ。ショスタコーヴィチは、ひとりの男性としていろいろな女性を好きになり、作曲家として創作をする中でいろいろなことに悩み、その思いを作品の中に取り入れた。ショスタコーヴィチが一貫して表現していたのは個人的な感情であって、彼は、歴史年代記や叙事詩の書き手というよりもむしろ私小説的な作曲家だったのだ。そしてこれは、おそらく次の第3点とも関連する。
そうあったかもしれないショスタコーヴィチ
第3は、「そうあったかもしれないショスタコーヴィチ」だ。2000年に刊行が始まったDSCH社の全集を中心に、これまで知られていなかった多くの作品が出版された。特に重要なのが、未完に終わった作品の数々だ。現行の交響曲第9番の前に書かれた第9番第1楽章断片、弦楽四重奏曲第9番の前に書かれた弦楽四重奏曲第1楽章断片などは、すでに録音も行われていて音が聞ける。ほかにも、それぞれ現行版の前に書かれた、交響曲第8番第2楽章(現行のものと似ているが主旋律をピアノ・ソロが弾く ! )やヴァイオリン協奏曲第2番第1楽章(3管編成で嬰ヘ短調、残存する136小節のうち105小節まで独奏ヴァイオリンが出てこない)など、驚くようなものが未録音で残っている。
だが、ショスタコーヴィチの死後に出版された未完作品の中で、もっとも興味深いのは、未完のオペラ群だ。ショスタコーヴィチが完成した歌劇は『鼻』(1928)と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1932)、それに、軽い内容のオペレッタ『モスクワ、チェリョームシキ』(1958)だけだが、彼にはほかにも何本もオペラの計画があった。
2004年に発見された歌劇『オランゴ』(1932)のプロローグは特に興味深い。医学の実験によって人間と猿のハイブリッドが生まれるというSF的、風刺的な内容のオペラだが、残念ながら、プロローグ以降の台本ができてこなかったため、未完に終わってしまった。このプロローグの楽譜はジェラード・マクバーニー(1954~)によってオーケストレーションされ、2011年にサロネンによって初演された。
『オランゴ』だけではない。『大きな稲妻』(1932)および『賭博師』(1941)の断片は、かつてロジェストヴェンスキーによって録音されていた。また、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を第1作とする「女性4部作」の第2作となる予定だった『人民の意志』も、122小節が現存している。イリフ&ペトロフの原作による『12の椅子』やトルストイの『復活』に基づく『カチューシャ・マスロヴァ』などは、わずかながらスケッチが残っていることがわかっている。そして晩年に手掛けていた、チェーホフの原作による『黒衣の僧』も、劇中に使用する予定だったブラーガ(1829~1907)《セレナード》の編曲のほか、冒頭部分の楽譜が1枚残っているという。こうしてみると、ショスタコーヴィチはオペラを書きたいという意欲を生涯にわたって持っていたことがわかる。
にもかかわらず、彼が後半生にオペラを書き上げられなかったのは不思議だ。先輩のプロコフィエフ(1891~1953)は8作、親しかったヴァインベルク(1919~96)は7作のオペラを完成している。ショスタコーヴィチが2作にとどまったのはなぜなのか。もちろんこれにはいろいろな理由が複合しているのだが、ひとつには、ショスタコーヴィチが、根っこの部分では、個人的な感情を音楽を通じて語る作曲家だったからではないだろうか。
だが、ショスタコーヴィチの死後に出版された未完作品の中で、もっとも興味深いのは、未完のオペラ群だ。ショスタコーヴィチが完成した歌劇は『鼻』(1928)と『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1932)、それに、軽い内容のオペレッタ『モスクワ、チェリョームシキ』(1958)だけだが、彼にはほかにも何本もオペラの計画があった。
2004年に発見された歌劇『オランゴ』(1932)のプロローグは特に興味深い。医学の実験によって人間と猿のハイブリッドが生まれるというSF的、風刺的な内容のオペラだが、残念ながら、プロローグ以降の台本ができてこなかったため、未完に終わってしまった。このプロローグの楽譜はジェラード・マクバーニー(1954~)によってオーケストレーションされ、2011年にサロネンによって初演された。
『オランゴ』だけではない。『大きな稲妻』(1932)および『賭博師』(1941)の断片は、かつてロジェストヴェンスキーによって録音されていた。また、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を第1作とする「女性4部作」の第2作となる予定だった『人民の意志』も、122小節が現存している。イリフ&ペトロフの原作による『12の椅子』やトルストイの『復活』に基づく『カチューシャ・マスロヴァ』などは、わずかながらスケッチが残っていることがわかっている。そして晩年に手掛けていた、チェーホフの原作による『黒衣の僧』も、劇中に使用する予定だったブラーガ(1829~1907)《セレナード》の編曲のほか、冒頭部分の楽譜が1枚残っているという。こうしてみると、ショスタコーヴィチはオペラを書きたいという意欲を生涯にわたって持っていたことがわかる。
にもかかわらず、彼が後半生にオペラを書き上げられなかったのは不思議だ。先輩のプロコフィエフ(1891~1953)は8作、親しかったヴァインベルク(1919~96)は7作のオペラを完成している。ショスタコーヴィチが2作にとどまったのはなぜなのか。もちろんこれにはいろいろな理由が複合しているのだが、ひとつには、ショスタコーヴィチが、根っこの部分では、個人的な感情を音楽を通じて語る作曲家だったからではないだろうか。
【CD】
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団
〈録音:2014年4月30日~5月2日 ミュンヘン(ライヴ)〉
[BR Klassik, 900191]
*ショスタコーヴィチの生前から世界的に演奏されている名曲だが、その意味するところは、『証言』の出現によって「共産主義革命の勝利」から「強制された歓喜」へと変わり、その後、エレーナ・コンスタンチノフスカヤとの関係が明らかになることで、「元恋人へのメッセージ」へと変化しつつある、かもしれない。
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団
〈録音:2014年4月30日~5月2日 ミュンヘン(ライヴ)〉
[BR Klassik, 900191]
*ショスタコーヴィチの生前から世界的に演奏されている名曲だが、その意味するところは、『証言』の出現によって「共産主義革命の勝利」から「強制された歓喜」へと変わり、その後、エレーナ・コンスタンチノフスカヤとの関係が明らかになることで、「元恋人へのメッセージ」へと変化しつつある、かもしれない。
【CD】
ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ
ユーリ・バシュメット(ヴィオラ)
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
〈録音:1985年3月6〜8日 フライブルク(ライヴ)〉
[King International, KKC106] CD&SACD
*ショスタコーヴィチは、このソナタが生涯最後の作品となるであろうことを承知した上で、ベートーヴェンの《月光》ソナタが全編にわたって流れる終楽章に、自分の交響曲を第1番から第15番まで順に、ひとつの美しい旋律に仕立てて引用した。その手腕があまりに見事だったため、これは発表後30年間、誰にも気づかれなかった。
ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ
ユーリ・バシュメット(ヴィオラ)
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
〈録音:1985年3月6〜8日 フライブルク(ライヴ)〉
[King International, KKC106] CD&SACD
*ショスタコーヴィチは、このソナタが生涯最後の作品となるであろうことを承知した上で、ベートーヴェンの《月光》ソナタが全編にわたって流れる終楽章に、自分の交響曲を第1番から第15番まで順に、ひとつの美しい旋律に仕立てて引用した。その手腕があまりに見事だったため、これは発表後30年間、誰にも気づかれなかった。
【CD】
ショスタコーヴィチ:映画音楽《女友だち》/交響曲断章(交響曲第9番第1楽章/1945年未完)他
マーク・フィッツ=ジェラルド指揮
ポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団
〈録音:2008年9月21日 カトヴィツェ〉
[Naxos, 8.572138]
*ショスタコーヴィチの軽くてユーモラスな「第9」は、勝利の大交響曲を期待する当局を大いにがっかりさせ、やがてジダーノフによる批判につながった。しかし現行の「第9」より前に、ショスタコーヴィチは力強く劇的な別の交響曲を書きかけていたのだ。こちらが第9になっていたら、彼の運命はまた違っていたかもしれない。
ショスタコーヴィチ:映画音楽《女友だち》/交響曲断章(交響曲第9番第1楽章/1945年未完)他
マーク・フィッツ=ジェラルド指揮
ポーランド国立放送カトヴィツェ交響楽団
〈録音:2008年9月21日 カトヴィツェ〉
[Naxos, 8.572138]
*ショスタコーヴィチの軽くてユーモラスな「第9」は、勝利の大交響曲を期待する当局を大いにがっかりさせ、やがてジダーノフによる批判につながった。しかし現行の「第9」より前に、ショスタコーヴィチは力強く劇的な別の交響曲を書きかけていたのだ。こちらが第9になっていたら、彼の運命はまた違っていたかもしれない。