水谷 晃 コンサートマスター就任記念インタビュー

Akira MIZUTANI

水谷 晃
Akira MIZUTANI, Violin(Concertmaster of the TMSO)

 大分市生まれ。桐朋学園大学を首席で卒業。ヴァイオリンを小林健次、室内楽を原田幸一郎、毛利伯郎の各氏と東京クヮルテットに師事。在学中にウェールズ弦楽四重奏団を結成し松尾学術振興財団より助成を受け、イェール大学夏期アカデミー、ノーフォーク室内楽音楽祭に参加。その後、第57回ミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏部門で第3位入賞。日本人のみで結成された弦楽四重奏団としては38年ぶりの入賞となった。2010年4月より国内最年少のコンサートマスターとして群馬交響楽団コンサートマスターに就任。群馬県内での音楽活躍が評価され、第9回上毛芸術文化賞を受賞。
2013年4月から2023年3月まで東京交響楽団コンサートマスター。10年間の在団中、音楽監督ジョナサン・ノット指揮による《英雄の生涯》を含む多数のCDが発売。自身の音楽活動の柱としてアウトリーチ活動にも積極的に取り組み、2021年2月より故郷・大分にて、音楽を通して地域や社会にスポットライトを当てるプロジェクトを始動。室内楽奏者として木曽音楽祭、ゆふいん音楽祭など、各地の音楽祭にも出演している。オーケストラ・アンサンブル金沢客員コンサートマスター。桐朋学園大学講師として後進の育成にも取り組んでいる。

© Taira Tairadate

未来を少しでも良くする時間を

取材・文/友部衆樹

  •  2024年4月1日に水谷晃が東京都交響楽団コンサートマスターに就任。これまでの歩みを伺いました。

  • 豊田市ジュニアオーケストラ

    都響で初めてゲスト・コンサートマスターを務めた演奏会
    ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番終演後
    指揮/アラン・ギルバート ピアノ/キリル・ゲルシュタイン
    (プロムナードコンサート/ 2023年7月15日/サントリーホール
    © 堀田力丸

     オーケストラとの出会いは、豊田市ジュニアオーケストラです。僕は大分市出身で、3歳でヴァイオリンを始めましたが、父の仕事の都合で小4から中2までインドネシアで過ごしました。当時の現地は今ほどクラシック音楽が盛んではなく、先生に出会うことが難しかったので、ヴァイオリンに関しては5年間ブランク状態でしたけれど、中3で帰国して豊田市へ住み始めた時に入団オーディションを受け、ジュニアオーケストラに入ることができました。
     ここには小4から高3までの子どもたちが参加しています。僕は小さいころ弦楽合奏をやったことはありましたが、管楽器や打楽器も揃ったオーケストラで弾くのは初めてでした。森山涼介さん(都響チェロ奏者)も豊田市ジュニアオーケストラの出身で、彼とは幼なじみです。
     入団したところ、いきなり第2ヴァイオリンの首席に座ることに。ヴァイオリンはメロディを弾く楽器だと思っていたので、内声を弾いても自分がどこで何をやっているのか見当がつかない。曲は『魔笛』序曲や《くるみ割り人形》組曲などでしたが、本番では緊張し過ぎて、どんな演奏をしたかよく憶えていません。でも音の重なり合いがすごく楽しかった。
     その半年後に次の演奏会があり、尾高忠明先生の指揮で、モーツァルトの《リンツ》交響曲などを弾きました。この時、コンサートマスターに抜擢され、自分は何をすべきなのか、初めて考えました。オーケストラのDVDをたくさん借りて観ましたけれど、どうもよく分からない。
     《リンツ》は本当に心が躍る曲ですが、自分だけ躍動して弾いても、皆との波長が合わないと意味がないわけです。オーケストラが好き、という気持ちはありましたが、この時の演奏は自分に納得できなかった記憶があります。コンサートマスターは一番前で弾くだけではなくて、みんなとシェアしなくちゃいけないんだ、と気づいたわけですね。その後、高2までの演奏会すべてでコンサートマスターをさせていただきました。

  • ヴァイオリニストになりたい

     当時は地元の普通高校へ通い、建築家になりたくて理系のクラスにいました。
     ところが高2の時、アメリカ同時多発テロ事件(9.11)が発生。世界貿易センタービルが崩れていくのをテレビで見ていて、自分の夢も崩れてしまった気がしました。あのビルは、世界の貿易が幅広く、平等に、地球を一つにするようにと、その理念が見えるように設計されたもの。それが永遠に語り継がれる悲劇の象徴になってしまった。ちょっと不思議な心理状態で、僕は建築家になれない、他に好きな仕事は何だろう、と考えました。……それがヴァイオリンだったんです。
     この時、小林健次先生(桐朋学園大学教授/元都響ソロ・コンサートマスター)が月1回名古屋へいらっしゃる機会にレッスンを受けていたのですが、2つめの世界貿易センタービルがまだ残っているタイミングで、先生に電話しました。「先生、僕はヴァイオリニストになることに決めました」「あなた、本気で目指すんですか?」「はい、この夢に全部を懸けたいと思います」「じゃ、週に1回、東京へレッスンに来なさい」ということで、本格的なレッスンが始まりました。
     健次先生に学ぶわけですから、当然、桐朋を目指すことに。既に高2の9月なので、受験まで1年半しかない。そのため、先生のレッスンは毎回3~4時間におよびました。受験の前の週に、先生に言われたのは「あなたね、桐朋に1番で入らないと、仕事なんてないですよ」。生徒がどう受け取るか、あまり考えない先生でしたね(笑)。自分はすごく緊張していたのに。
     幸いなことに1番で合格できて、先生のところへ入学の挨拶に行ったら、今度は「あなたね、大学を1番で卒業しないと、仕事なんてないですよ」。どんどんハードルが上がっていく(笑)。
     でもそれは、指導者として素晴らしいことだと思います。次に乗り越えるべき壁をハッキリと認識させてくださった。大学でも健次先生に師事しましたが、楽譜をどう読むか、音楽がどれだけ尊く、どれだけ美しいのか、健次先生の師匠であるイヴァン・ガラミアン(1903~81)やシモン・ゴールドベルク(1909~93)両氏の教えと、その後の健次先生ご自身の探究に、4年間通して触れることができました。とても貴重な時間で、僕の土台を作ってくださったと思います。
     その健次先生がコンサートマスターをされていた都響で、今、僕が弾くことになったのは、本当に幸せな人生だな、と考えています。

  • 桐朋学園大学

     桐朋では入学早々、大きな壁にぶち当たりました。高校から、あるいは子供のための音楽教室から入った人が多く、大学から入る人は少数派なんです。内部進学で来た人たちは人間関係ができあがっていて、なかなかその輪の中に入れない。音楽的にも、年下の高校生たちの方がオーケストラの経験があって、とても上手い。そんな中で周囲に認められるためには、コンクールなどで好成績を残し、「あいつはヴァイオリンが上手い」という認識を広めるしかないわけです。
     健次先生の方針もあって、日本音楽コンクールを大学1年から受けましたが、最初は1次予選落ち。大学2年の時は、何とか2次予選を突破して3次予選へ進むことができました(本選へは行けませんでしたが)。音コンの3次まで行った者は、桐朋学園オーケストラでコンサートマスターをやれる、というのが学内の伝統でしたが、僕の場合はまず第2ヴァイオリンの首席をやり、大学3年で初めてコンサートマスターをやる、という流れでした。
     その大学3年の時のオーケストラですが、指揮は有田正広先生。学生相手でも、もちろんピリオド・アプローチを導入したわけです。先生と一緒に音楽し、歴史的な資料に触れ、それを紐解いて再び音にする。生きた勉強の時間でした。
     大学3年の終わりに、仲間とウェールズ弦楽四重奏団を結成。大学4年以降はカルテットに集中しました。2008年4月に大学を卒業、研究科に籍を置きつつ、カルテットと、神奈川フィルや仙台フィルなどいくつかのオーケストラでゲスト・コンサートマスターをさせていただく、という日々でした。
     同年9月にミュンヘン国際音楽コンクールに参加、とても名誉なことに第3位をいただくことができました。それでカルテットとしては道が開け、4人でヨーロッパへ留学という話になったのですが、僕は考えてしまって。自分はカルテットが好きだけれど、オーケストラも好きで、もっといろいろな音楽を経験してからカルテットをやりたい。悩んだ末にメンバーから抜けることにして、それ以降はオーケストラの活動を中心に置きました。
     僕の後にウェールズに加入したのが三原久遠さん(都響第2ヴァイオリン副首席奏者)で、彼らは今や世代を代表するカルテットになりました。もちろん今でも交流がありますし、いつも応援しています。

  • 群馬交響楽団

     何度かゲスト・コンサートマスターに呼んでいただいたのが縁で、2010年4月に群馬交響楽団へコンサートマスターとして入団しました。
     群響の3年間を振り返ると、もう感謝しかありません。コンサートマスターは多種多様な経験が必要な仕事で、皆が安心して音楽をできる環境を作る、指揮者との関係を作る、事務局の人たちの思いも受けとめて……など本当にオールラウンダーなものを求められる。それを24歳の僕に任せていただけた。
     本当に皆さんが温かくしてくださって、「あなたが考えるようにやっていいですよ」という雰囲気の中で、一つひとつの公演に取り組むことができました。楽員の皆さんとも話をして、オーケストラって一つの集合体ですけれど、やはり一人ひとりが人生を懸けて作ってきたものが、今この瞬間に鳴っているんだと再認識しました。
     また、指揮者の招聘やオーケストラの課題について、会議に参加することもありました。自分の思いはあるけれど、コンサートマスターという立場でいろいろな角度から物事を考える経験になりました。

  • 東京交響楽団

     オーケストラのメンバーになったからには、オペラやバレエもやってみたかった。在京オケの中で、一番フレキシブルにいろいろなことをやっているのは東京交響楽団かな、と思っていた時に、ゲスト・コンサートマスターとして弾かせていただく機会があって。皆さんが様々な活動に生き生きと取り組んでいる様子が印象的でした。2回目にゲストで伺った時にはもう、「次の4月から来ていただけませんか」という話が出て、悩みましたけれど、2013年4月に東響へ移籍しました。
     移籍してしばらくは、仕事のペースに慣れるまで大変でした。コンサートマスターは、大谷康子さん、グレブ・ニキティンさん、そして自分という3人体制でしたが、とにかく演奏会の回数が多くて、僕の場合は年間80公演くらい乗っていたと思います。
     バレエもオペラもシンフォニーも弾くことができて、それは本当に幸せでしたけれど、リハーサルと本番が続く忙しい日々。その中でいかに集中力を保つか。でも楽員の皆さんは本当にタフで、それを当たり前のように弾くんですね。
     そして、僕が入った翌年4月にジョナサン・ノットさんが音楽監督に就任。秋山和慶先生やユベール・スダーンさんのスタイルとは全く違うアプローチをする方で、右手と左手でニュアンスを振り分け、5連符は指で振り、大きな拍は肘で振り、打楽器への指示は右目でウィンク、みたいな。ノットさんが発する膨大な情報量を読み取れるようになるには時間がかかりました。
     とても内容が濃いシーズンを過ごすと、1年があっという間に終わってしまう。できれば室内楽や、地域のコミュニティでアウトリーチなどをやる時間をもっと作りたい。そんなことを考えて、勤続10年を機に1回リセットすることにしました。

  • 東京都交響楽団

    水谷晃(コンサートマスター)と大野和士(音楽監督)
    (2024年4月3日/サントリーホール楽屋にて)
    © 堀田力丸

     2023年4月にフリーになった時、先のことは何も決めておらず、まずは故郷の大分で室内楽やアウトリーチを本格化しました。室内楽はリハーサルを最初の段階から公開、ステージ後方にスクリーンを作って楽譜を投影、僕や仲間たちがリハの内容を実況中継する、ということをやっています。
     並行して日本各地のオーケストラからゲスト・コンサートマスターとして呼んでいただき、嬉しい再会もたくさんありました。コロナ禍で3ヶ月の休業を余儀なくされた時に、海外や国内のオーケストラの動画を見漁っていたのですが、そこに出てきた楽員さんや事務局の方たちと話ができて、日本にはさまざまな土地があり、その場所の人たちが大事にしてきたオーケストラの文化があり、個性豊かな楽員さんたちがいる。そんなことを実感できて本当に楽しかった。
     その中で、都響からも声をかけていただきました。今回、入団までに4つのプログラムを体験できたのはありがたかったです。最初がアラン・ギルバートさんでニールセンとラフマニノフ(7/14都響スペシャル・7/15プロムナード)。コンサートマスターとして初めて都響で弾いて、自分が何を感じるか、楽員の皆さんが何を感じてくださるか。でも、健次先生が仕事をしていたオーケストラで自分が弾いている、という喜びが一番大きかった。ギルバートさんは指示が細かく、妥協しない。目で合わせることをたくさん要求されつつ、ご自身がヴァイオリンの名手でもあるので、歌わせてくださいます。そのギルバートさんにヴァイオリンの手ほどきをしたのは健次先生だったというめぐり合わせもありました。
     続いて大野和士さんのブラームスとドヴォルザーク(10/7都響スペシャル)。実は大野さんとの初対面は、僕が群響でトップサイドを弾いた時に振ってくださったブラームスの交響曲第4番(2011年7月)なんです。その時は、なんて一筆書きのように流れるような指揮をされるマエストロだろう、と思って。それと、振り始める前に空気が作られる。「音が出る」というのは、その前に動作の準備があって起こる現象なので、音の直前にその雰囲気が見えるとオーケストラとして出すべき音色が分かります。
     そして小泉和裕さんのチャイコフスキーとプロコフィエフ(11/24 A定期)。都響との関係が長いマエストロですから、オーケストラとの手綱の渡し合いが絶妙。阿吽の呼吸が素晴らしかった。
     その後はジョン・アダムズさんの自作演奏会(1/18 B定期・1/19 A定期)。楽員の皆さんのアダムズさんへのリスペクトが大きく、献身的な演奏には胸を打たれるものがありました。
     そうした中で、「コンサートマスターとして来ていただけますか」というお話をいただきました。
     都響には、矢部達哉さん、山本友重さんという大先輩がいらっしゃいます。矢部さんは、34年も都響とともに歩んでいらした。入団当時は都響の創立世代の方と一緒に音楽をされていたわけですから、都響の歴史を網羅している方ですよね。友重さんもアンサンブルの名手で、昔、組んでいらしたすばる弦楽四重奏団のバルトークの録音で衝撃を受けたことがあります。そういった経験豊かな方と一緒に弾く機会があるのはありがたいことです。
     クラシック音楽を演奏することは、過去から大切に引き継がれたものを、今、分かち合うことだと思います。相反するようですが、僕が大好きな言葉の一つに「地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ」(サン=テグジュペリ)があります。オーケストラ鑑賞教室もたくさん行っている都響は、過去と未来の両方を「今」という点で一つに繋げています。これからより親密になっていく都響の素晴らしい仲間と共に音楽を探究し、良い演奏をお客様と味わい、借りものである未来を少しでも良くするような時間を過ごしたいと思います。

水谷晃/東京都交響楽団コンサートマスター就任メッセージ