スコアの深読み
第29回
ジョン・アダムズの魅力(後編)
独自の作風確立と、その特徴
現在76歳のジョン・アダムズ(1947~)の人生において、最も重要な作品を一つ選べといわれたら、1972年に起きたばかりの史実をもとに制作された、アダムズにとって初めてのオペラ『ニクソン・イン・チャイナ』(1985~87)になるだろう。1987年に初演された時、彼は40歳だった。このオペラが21世紀に再演を重ね、徐々に高く評価されただけではない。アダムズがのちに歩んでいく道筋を決定づけることになったからこそ重要なのだ。
まずは、管弦楽へ新しい音色を積極的に導入し始めたこと。主に20世紀中の作品に重用されたのがシンセサイザーとキーボード・サンプラーで、シンプルな音階や和音の反復であっても懐古的に響かせない。また強弱の差が激しい管弦楽に対し、柔軟にフィットできる新しいレイヤーを加えたことで、より複雑なポリリズムをオーケストラで表現できるようにもなった。
そして何より重要なのは、アダムズ流のミニマル・ミュージックに合う主旋律を書けるようになったことではないだろうか。アダムズ自身は、この当時の作品に強い旋律はなく、朗唱的なものと捉えていたようだが、例えば過去作《シェイカー・ループス》(1978/83)の第3楽章に登場する旋律の欠片のようなものと、80年代半ばの作品を聴き比べれば旋律性が強まっているのは明らか。具体的にいえば旋律に反復性を持たせながらも、他の反復されるリズムより自由度高く変化させていくのだ。もちろん、前回取り上げた実質的な交響曲《ハルモニーレーレ》(1984~85)を作曲する際に後期ロマン派などの管弦楽曲を参照した経験も活かされているはずだ。
まずは、管弦楽へ新しい音色を積極的に導入し始めたこと。主に20世紀中の作品に重用されたのがシンセサイザーとキーボード・サンプラーで、シンプルな音階や和音の反復であっても懐古的に響かせない。また強弱の差が激しい管弦楽に対し、柔軟にフィットできる新しいレイヤーを加えたことで、より複雑なポリリズムをオーケストラで表現できるようにもなった。
そして何より重要なのは、アダムズ流のミニマル・ミュージックに合う主旋律を書けるようになったことではないだろうか。アダムズ自身は、この当時の作品に強い旋律はなく、朗唱的なものと捉えていたようだが、例えば過去作《シェイカー・ループス》(1978/83)の第3楽章に登場する旋律の欠片のようなものと、80年代半ばの作品を聴き比べれば旋律性が強まっているのは明らか。具体的にいえば旋律に反復性を持たせながらも、他の反復されるリズムより自由度高く変化させていくのだ。もちろん、前回取り上げた実質的な交響曲《ハルモニーレーレ》(1984~85)を作曲する際に後期ロマン派などの管弦楽曲を参照した経験も活かされているはずだ。
舞台・声楽作品を深化させた「オラトリオ」と「事前録音」
次なる重要なステップになったのも、またオペラだった。『ニクソン・イン・チャイナ』というテーマを提案し、演出も行ったピーター・セラーズ(1957~)は、『ニクソン・イン・チャイナ』の初演前から既に、次なる題材を提案。その結果、誕生したのが『クリングホファーの死』(1990~91)である。1985年に起きたばかりのアキレ・ラウロ号でのテロ事件を描いた、現在にも繋がるイスラエルとパレスチナの衝突を取り扱った問題作だ。内容の是非について触れることは避けるが、作風変遷として重要なのはオペラと題されながら、アダムズ自身が語っているようにバッハの受難曲をモデルにしたため、オラトリオ的な性格が強い内容になったことである。
改めて確認しておくがバロック時代に盛んに書かれたオラトリオというのは、原則として舞台用の演出はつかないけれども、同時代のオペラと同様にレチタティーヴォ、アリア、重唱、合唱を駆使して宗教にまつわる物語を描いていく。オペラが演劇だとすれば、演技を伴わないオラトリオは朗読劇のような性格になりやすい。意見が直接的にぶつかり合うよりも、それぞれの主張が大事にされるのだ(そのせいもあったのだろう。テロリストであるパレスチナ側に同情的であると、ユダヤ側から批判を受けることに……)。
この方向性を深めたのが“オペラ=オラトリオ”と題された2つの作品――イエスの降誕を描いた『エル・ニーニョ』(1999)、イエスの受難を扱う『もうひとりのマリアによる福音』(2012)――であった。そして『クリングホファーの死』と『エル・ニーニョ』における深く感情に訴えかける合唱と管弦楽の書法は、アダムズに名誉あるピューリッツァー賞をもたらした《魂の転生(On the Transmigration of Souls)》(2001)へも繋がっていく。
2001年の同時多発テロ事件を題材にしたこの作品で、合唱と同じぐらい重要な役割を担うのが“事前録音されたサウンド”だ。スピーカーを通して流れる街なかの騒音や語りが生演奏と重ねられてゆく(自伝によれば、学生時代にも似たようなアイデアを一度試みたことがあったらしい)。この手法は更に、原爆の父ロバート・オッペンハイマーを主人公とするオペラ『ドクター・アトミック』(2004~05)において発展的に用いられることで、史実を題材にしたオペラを現実そのものとより強く接合するようになった(『ドクター・アトミック』の幕切れ直前には日本語が聴こえてくる……)。
ちなみにアダムズの最新のオペラは2022年に初演されたばかりの『アントニーとクレオパトラ』。これまでと異なる文芸路線に進んだのは、これが初めてセラーズとコラボレーションしないオペラだからなのだろう。
改めて確認しておくがバロック時代に盛んに書かれたオラトリオというのは、原則として舞台用の演出はつかないけれども、同時代のオペラと同様にレチタティーヴォ、アリア、重唱、合唱を駆使して宗教にまつわる物語を描いていく。オペラが演劇だとすれば、演技を伴わないオラトリオは朗読劇のような性格になりやすい。意見が直接的にぶつかり合うよりも、それぞれの主張が大事にされるのだ(そのせいもあったのだろう。テロリストであるパレスチナ側に同情的であると、ユダヤ側から批判を受けることに……)。
この方向性を深めたのが“オペラ=オラトリオ”と題された2つの作品――イエスの降誕を描いた『エル・ニーニョ』(1999)、イエスの受難を扱う『もうひとりのマリアによる福音』(2012)――であった。そして『クリングホファーの死』と『エル・ニーニョ』における深く感情に訴えかける合唱と管弦楽の書法は、アダムズに名誉あるピューリッツァー賞をもたらした《魂の転生(On the Transmigration of Souls)》(2001)へも繋がっていく。
2001年の同時多発テロ事件を題材にしたこの作品で、合唱と同じぐらい重要な役割を担うのが“事前録音されたサウンド”だ。スピーカーを通して流れる街なかの騒音や語りが生演奏と重ねられてゆく(自伝によれば、学生時代にも似たようなアイデアを一度試みたことがあったらしい)。この手法は更に、原爆の父ロバート・オッペンハイマーを主人公とするオペラ『ドクター・アトミック』(2004~05)において発展的に用いられることで、史実を題材にしたオペラを現実そのものとより強く接合するようになった(『ドクター・アトミック』の幕切れ直前には日本語が聴こえてくる……)。
ちなみにアダムズの最新のオペラは2022年に初演されたばかりの『アントニーとクレオパトラ』。これまでと異なる文芸路線に進んだのは、これが初めてセラーズとコラボレーションしないオペラだからなのだろう。
器楽作品の表現を拡張した「強いメロディ」と「異なる様式の統合」
時代をもう一度、1980年代半ばに戻そう。今度は声楽を伴わない作品の変遷を追ってみたい。《ハルモニーレーレ》(1984~85)のあとに書かれた管弦楽曲《フィアフル・シンメトリーズ》(1988)は、『ニクソン・イン・チャイナ』で採用された編成を発展させたもので、サクソフォン・セクションやキーボード・サンプラーで管弦楽を拡張している。ちなみに、この時期に武満徹との交流から書かれた《エロス・ピアノ》(1989)というピアノ独奏と管弦楽のための作品はとても興味深いが、最もアダムズらしからぬ楽曲だ。
だが旋律への意識の高まりに注目してみれば、実は次のステップへの過渡期だったのだと捉えられるかもしれない。それが、これまで挑んでこなかったメロディアスな作品として書いたとアダムズ本人が語っているヴァイオリン協奏曲(1993)だ。独奏ヴァイオリンはもちろんのこと、管弦楽さえもミニマル的な反復が後退していることに驚かされる。
90年代の試みとして、もうひとつ重要なのが《シェイカー・ループス》ぶりとなる室内楽作品《室内交響曲》(1992)だ。これまでとは異なる書法を求めて、シェーンベルクの同名作品をベースにした15名の楽器編成のために作曲。実際の曲調としてストラヴィンスキーの《兵士の物語》やミヨーの《世界の創造》といった、ポピュラー音楽を取り入れた先駆作からも大きな影響を受けている。またジャズのウォーキングベースを題材にした第2楽章は、前述したヴァイオリン協奏曲のようにミニマル的な反復から離れているのが興味深い。こうした方向性は、部分的に弦楽四重奏と事前録音のための《John's Book of Alleged Dances》(1994)にもみられるので、ヴァイオリン協奏曲に限らず90年代前半の課題だったのだろう。
こうした様々な試みが集約されたのが《スロニムスキーのイアーボックス》(1995)だ。ストラヴィンスキー作曲《ナイチンゲールの歌》の華やかな冒頭に示唆を受けたというが、作曲者自身が管弦楽曲の転換点になったと発言しているのは、ミニマルらしい反復とメロディアスで対位法的な表現を統合することに成功したからだった。だから後続するピアノ協奏曲《センチュリー・ロールズ》(1996)では、ヴァイオリン協奏曲の路線とミニマルらしい反復の両立に成功しているのだ。この方向性の集大成となったのは管弦楽のための40分超えの大作《ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック》(1997~98)である。
21世紀に入ってもエレクトリック・ヴァイオリンのための協奏曲《大スールの達磨(The Dharma at Big Sur)》(2003)や《室内交響曲の息子(Son of Chamber Symphony)》(2007)でアダムズは引き続きサンプラーを使用しているが、必須の楽器ではなくなっていく。しかしながら管弦楽のサウンド拡張には今も熱心で、一部の楽器の調律を変えたり、オーケストラでは珍しい楽器を編入したりすることは多い。
シンフォニック・ジャズに挑んだ《シティ・ノワール》(2009)は管弦楽にジャズドラムを導入。アルトサクソフォンも加わって、まるで独奏のように活躍する。この経験が活かされたと思われるのがサクソフォン協奏曲(2013)で、歴代の有名ジャズ・サクソフォン奏者と偉大なジャズのアレンジャーだったギル・エヴァンス(1912〜88)を意識して作曲された。
協奏曲には新機軸の作品が多く、弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲ともいえる《アブソリュート・ジェスト》(2011)はベートーヴェン作品の引用によってミニマル・ミュージックをつくりだす。過去の有名曲を意識した作品としては他にも、2017年4月に都響が日本初演を行った《シェへラザード. 2》(2014)がある。リムスキー=コルサコフの交響組曲をモデルにしているので、やはりヴァイオリン・ソロが重要な役割を果たすのだが、ツィンバロンが導入されてエキゾチックな雰囲気が強調される。
ピアニストのユジャ・ワンが初演したことで話題を呼んだピアノ協奏曲《悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?(Must the Devil Have All the Good Tunes?)》(2018)はベース・ギター(いわゆるエレクトリック・ベース)に加え、調律を狂わせたホンキートンク・ピアノが登場して独奏ピアノに重ねられるのが面白い。指揮者マイケル・ティルソン・トーマスのパートナーがきっかけとなって生まれた《アイ・スティル・ダンス》(2019)にはベース・ギターに加え、なんと日本の太鼓が使われる。
現在進行系で、今も管弦楽の可能性を拡張しながらも、単なる実験に終わらない。聴衆に長らく愛される可能性をもった作品を書き続けているからこそ、ジョン・アダムズの音楽は新旧問わず、何度も演奏され続けているのだ。
小室敬幸(作曲・音楽学)
だが旋律への意識の高まりに注目してみれば、実は次のステップへの過渡期だったのだと捉えられるかもしれない。それが、これまで挑んでこなかったメロディアスな作品として書いたとアダムズ本人が語っているヴァイオリン協奏曲(1993)だ。独奏ヴァイオリンはもちろんのこと、管弦楽さえもミニマル的な反復が後退していることに驚かされる。
90年代の試みとして、もうひとつ重要なのが《シェイカー・ループス》ぶりとなる室内楽作品《室内交響曲》(1992)だ。これまでとは異なる書法を求めて、シェーンベルクの同名作品をベースにした15名の楽器編成のために作曲。実際の曲調としてストラヴィンスキーの《兵士の物語》やミヨーの《世界の創造》といった、ポピュラー音楽を取り入れた先駆作からも大きな影響を受けている。またジャズのウォーキングベースを題材にした第2楽章は、前述したヴァイオリン協奏曲のようにミニマル的な反復から離れているのが興味深い。こうした方向性は、部分的に弦楽四重奏と事前録音のための《John's Book of Alleged Dances》(1994)にもみられるので、ヴァイオリン協奏曲に限らず90年代前半の課題だったのだろう。
こうした様々な試みが集約されたのが《スロニムスキーのイアーボックス》(1995)だ。ストラヴィンスキー作曲《ナイチンゲールの歌》の華やかな冒頭に示唆を受けたというが、作曲者自身が管弦楽曲の転換点になったと発言しているのは、ミニマルらしい反復とメロディアスで対位法的な表現を統合することに成功したからだった。だから後続するピアノ協奏曲《センチュリー・ロールズ》(1996)では、ヴァイオリン協奏曲の路線とミニマルらしい反復の両立に成功しているのだ。この方向性の集大成となったのは管弦楽のための40分超えの大作《ナイーヴ・アンド・センティメンタル・ミュージック》(1997~98)である。
21世紀に入ってもエレクトリック・ヴァイオリンのための協奏曲《大スールの達磨(The Dharma at Big Sur)》(2003)や《室内交響曲の息子(Son of Chamber Symphony)》(2007)でアダムズは引き続きサンプラーを使用しているが、必須の楽器ではなくなっていく。しかしながら管弦楽のサウンド拡張には今も熱心で、一部の楽器の調律を変えたり、オーケストラでは珍しい楽器を編入したりすることは多い。
シンフォニック・ジャズに挑んだ《シティ・ノワール》(2009)は管弦楽にジャズドラムを導入。アルトサクソフォンも加わって、まるで独奏のように活躍する。この経験が活かされたと思われるのがサクソフォン協奏曲(2013)で、歴代の有名ジャズ・サクソフォン奏者と偉大なジャズのアレンジャーだったギル・エヴァンス(1912〜88)を意識して作曲された。
協奏曲には新機軸の作品が多く、弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲ともいえる《アブソリュート・ジェスト》(2011)はベートーヴェン作品の引用によってミニマル・ミュージックをつくりだす。過去の有名曲を意識した作品としては他にも、2017年4月に都響が日本初演を行った《シェへラザード. 2》(2014)がある。リムスキー=コルサコフの交響組曲をモデルにしているので、やはりヴァイオリン・ソロが重要な役割を果たすのだが、ツィンバロンが導入されてエキゾチックな雰囲気が強調される。
ピアニストのユジャ・ワンが初演したことで話題を呼んだピアノ協奏曲《悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?(Must the Devil Have All the Good Tunes?)》(2018)はベース・ギター(いわゆるエレクトリック・ベース)に加え、調律を狂わせたホンキートンク・ピアノが登場して独奏ピアノに重ねられるのが面白い。指揮者マイケル・ティルソン・トーマスのパートナーがきっかけとなって生まれた《アイ・スティル・ダンス》(2019)にはベース・ギターに加え、なんと日本の太鼓が使われる。
現在進行系で、今も管弦楽の可能性を拡張しながらも、単なる実験に終わらない。聴衆に長らく愛される可能性をもった作品を書き続けているからこそ、ジョン・アダムズの音楽は新旧問わず、何度も演奏され続けているのだ。
小室敬幸(作曲・音楽学)
【CD】
ジョン・アダムズ:
①アブソリュート・ジェスト
②グランド・ピアノラ・ミュージック
①マイケル・ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団 セント・ローレンス弦楽四重奏団
②ジョン・アダムズ指揮 サンフランシスコ交響楽団 マルク=アンドレ・アムラン、オルリ・シャハム(ピアノ)シナジー・ヴォーカルズ
〈録音:①2013年5月4〜5、9日 ②2015年1月16〜18日〉
(サンフランシスコ、デイヴィス・シンフォニー・ホールにおけるライヴ)
[SFS Media/SFS0063](海外盤)
*《アブソリュート・ジェスト》を委嘱したサンフランシスコ交響楽団と、初演メンバー(マイケル・ティルソン・トーマス&セント・ローレンス弦楽四重奏団)による録音。ベートーヴェン作品の引用に思わず耳を奪われるが、冒頭から登場するピアノとハープの変則チューニング(ミーントーン)が交じりあった新鮮な響きにもご注目を !
ジョン・アダムズ:
①アブソリュート・ジェスト
②グランド・ピアノラ・ミュージック
①マイケル・ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団 セント・ローレンス弦楽四重奏団
②ジョン・アダムズ指揮 サンフランシスコ交響楽団 マルク=アンドレ・アムラン、オルリ・シャハム(ピアノ)シナジー・ヴォーカルズ
〈録音:①2013年5月4〜5、9日 ②2015年1月16〜18日〉
(サンフランシスコ、デイヴィス・シンフォニー・ホールにおけるライヴ)
[SFS Media/SFS0063](海外盤)
*《アブソリュート・ジェスト》を委嘱したサンフランシスコ交響楽団と、初演メンバー(マイケル・ティルソン・トーマス&セント・ローレンス弦楽四重奏団)による録音。ベートーヴェン作品の引用に思わず耳を奪われるが、冒頭から登場するピアノとハープの変則チューニング(ミーントーン)が交じりあった新鮮な響きにもご注目を !