子どものときから指揮者になるのが夢でした

(月刊都響 1990年4月号インタビュー)

大野和士 Kazushi ONO

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大野和士
Kazushi ONO, Music Director

 仏・フィガロ紙で"現代の音楽シーンにおける最も素晴らしい音楽感性の持ち主"そして"特別な現象"と賞賛された日本を代表する指揮者。東京都交響楽団・音楽監督/バルセロナ交響楽団・音楽監督/新国立劇場・オペラ芸術監督/東京フィルハーモニー交響楽団・桂冠指揮者

子どものときから指揮者になるのが夢でした
—新しい都響指揮者・大野和士にきく(月刊都響 1990年4月号より)

強固な信頼関係を築いている大野和士と都響。
その歴史は、1984年都響ファミリーコンサートでのプロ・デビューから始まり、
1990年に都響指揮者就任を経て、2015年第5代音楽監督就任へと至ります。
本日、還暦を迎えた大野和士による1990年4月、都響指揮者に就任当時の貴重なインタビューをぜひご一読ください。
(原文のまま掲載しています。)[2020年3月4日]


  • この4月から大野さんに, 新しい都響指揮者に就任していただきましたが, まず抱負からうかがわせてください。


    大野 若い指揮者として, たいへんすぐれた感性の高いオーケストラと, 今後数多く協演する機会をえられたことを感謝しております。そして同時に, 私自身がこのところ, 指揮者としての役割りや指揮者としてやらなくてはならないことを, ひしひしと実感しつつあるという状況にありますから, 身の引き締まる思いがいたします。
    都響の指揮者として, できるかぎりの力を尽くしたいと考えているのです。


    たしか日本での正式なデビューは, 都響を指揮してのことでしたね。


    大野 ええ,たしか1984年3月だったと記憶していますが, 新宿文化センターでドヴォルザークの第8番の交響曲とベルリオーズの序曲『ローマの謝肉祭』, そしてラフマニノフの第2番のピアノ協奏曲でした。独奏した小山実稚恵さんとは東京芸大の同級生で, とりわけ印象に強くのこっているのです。


           1984年3月15日都響ファミリーコンサートNo.170 チラシ


    1988年の都響のヨーロッパ演奏旅行では, 全日程を副指揮者として同行していただき, いわば縁の下の力持ちといった役割りを見事にはたしていただいたことは, いまも記憶に新しいところです。


    大野 いざというときにすぐにピンチヒッターとして指揮がとれるように, という役目を仰せつかって全日程を同行したわけですが, 若杉弘先生もフルネ先生もお元気で,何事もなく終了したことは幸いだったと思っております。指揮の機会はありませんでしたが, 楽員の皆さんと親しくなったり, 時には演奏に加わってチェレスタを弾いたり, 都響とふれ合うことができたことは, いま考えるとこれも幸運でした。それからソロ・コンサートマスターの古澤巌さんとは,大学こそちがいますが同じ世代ということで,とりわけ親交が深まったのです。そうした人間的な交流ができたことが, 私にとってはいちばんの収穫でした。


    それだけに都響とはすでにすっかりおなじみになっている, といってもいいかもしれませんね。


    大野 定期演奏会もすでに昨年の3月に指揮をとらせていただいていますし,音楽鑑賞教室を含めるとかなりの回数を指揮しています。もっとも数多く指揮したオーケストラのひとつといってもいいかもしれません。


    指揮者になりたいという望みは, ずいぶん幼いころからおもちになっていた, とうかがっています。


    大野 ええ, 4歳ぐらいからなのです。私が生まれた1960年という年は, ちょうど高度経済成長が始まった年で, 両親はごく平凡な家庭を営んでいたのですが, ボーナス時期になると電気洗濯機が入ったり, 電気冷蔵庫が入ったりテレビが入ったりと, 少しずつ新しく便利な家電製品が増えたんです。そんなある年に, ステレオが入ったんですね。両親がクラシック音楽好きで, その当時の最新のステレオLPをひと月に1枚とか2枚買ってきて, 楽しんでいました。そのなかにブルーノ・ワルター指揮コロムビア響のベートーヴェンの『エロイカ』があったんですが, この交響曲をきいて忘我の状態になり, その快感に陶酔したのです。それが私が音楽家になりたいという夢をもった, 最大の契機のひとつだと思います。そして幼稚園の卒園の際に, 記念の文集に全員が将来の夢つまりなにになりたいのか書いたのですが, たいていは男の子だったら野球選手とかお医者さんとかおまわりさんが多いし, 女の子はスチュワーデスとか花屋さんとかウエイトレスとかお母さんなんて書いていたときに, 私だけ“指揮者”と書いてある(笑い)。


          1990年月刊都響4月号 インタビュー写真

    以来, 小学生からずっとその夢をおもちになりつづけられた。


    大野 ええ, 基本的には変わりませんでした。


    最初に習われた楽器はやはりピアノですか。


    大野 そうです。4歳ごろでしたか, わが家にピアノが入ってきて, それでピアノ教室で習い始めました。本格的なスタートは中学1年のときからで, 私の家からわりと近いところに作曲家の安藤久義先生がいらっしゃったので, その先生について音楽理諭の基礎を学び始めたのです。もちろんピアノも教えていただきましたが, 幸いなことに安藤先生は作曲家でしたから, ピアノをとおして音楽そのものの勉強ができたということですね。たとえばベートーヴェンのソナタを弾いていると, ベートーヴェンの交響曲にまで話がおよぶし, そのころまったく知らなかったマーラーの音楽を教えていただきました。バルトークも安藤先生に教えていただいたし……, そのころから私自身の裡で音楽の間口がいっきょに広がって, どうしても指揮者になるんだ, といった気概が生まれてきたのです。


    作曲家になりたい, という希望は?


    大野 作曲家は最初からムリだなという感じで, 独創的な楽想が浮かんできたためしがない(笑い)。ソナタを作曲しろといわれて書いたこともあるんですが, あまり にも大上段に構えてしまって, 主題を提示したあとで展開がどうもうまくいきません。転調させて再現部はできるんですけれども。


    やはり指揮者のほうに早くから天分があらわれていたようですね。


    大野 子供のときから音を聴きながら踊るのが大好きでした。自分の裡に、モクモクと沸き上ってくるような, 音に反応するものがあったのです。それが子供のころの音楽の聴き方だった, といってもいいでしょう。いまでも基本的には変わっていないと思います。音楽を内面化して聴くという聴き方は, 大人になってから身についたと思いますが, それ以前は音によって身体が躍動する, 鼓舞される, そこからスタートしたんですね。


    大野さんはオペラの指揮でも早くからご活躍されていらっしゃいますが, オペラヘの関心, さらにはドラマヘの関心も, 早くからおもちになったのでしょうか。


    大野 じつは兄がフランス文学の研究家で, だから子供のころから世界文学の名作はほとんど, その兄のおかげで私の身近にあって, いつのまにかカジリ読み始めていたんですね。そして, そのなかのひとつである戯曲の世界が, 私に音楽と同じような魅力をあたえてくれることに気がつきました。戯曲を読むということは, ひとつひとつのセリフを自分が音化することができる, それが私にとってはたいへん新鮮でした。そして俳優というものに対しても, 自分の裡にふたりの人格を作ることができるという点で、ひじょうに快感を感じたのです。ですから私の戯曲の読み方は, 登場人物のセリフを語ることであり, それが高じて小説でも読むというよりも、語る語る語る。


    1990年月刊都響4月号表紙

    実際に声を出すことも……


    大野 よくありました(笑い)。


    それを音楽にもちこむと, 当然のことながらオペラヘの関心が強くなるはずでしょう。


    大野 はい。ですからもの心がついて指揮者になろうといった知的な欲求がふくらみ始めたころに, 自分自身にひじょうに刺激をあたえてくれたものが, オペラのなかにはすべてあって, それが私をオペラに駆り立てているように思います。たとえば今回のミラノ版の『バタフライ』 (1990年2月上演)でいえば、まず自分でピアノを弾いて音を嗚らし, 同時に台本を読んでそこに内在するドラマを探る。この『バタフライ』は内面的な密度が濃いから, たんに悲しいと泣き叫ぶだけではなく, 内面的なドラマとして歌わなくてはなりません。 “蝶々夫人“ にしても落ちぶれてはいても士族の出身で, 知的な女性で, いわゆる“芸者ガール”的な女性ではないということが, このミラノ初版では明確に打ち出されているのです。そうしたところをスコアから, ピアノを弾き, アリアを歌いながら, 具象化していくという作業が, もうこのうえなく大好きなんですね。完全にのめりこんでいる状態ですから, ピアノを弾きかつ歌いながら, 涙を流すことも多いオペラのその作業が大好きなんです。


    1990年月刊都響4月号インタビュー紙面

    そこで東京芸大指揮科に在学中から,オペラ指揮を手がけられ始めた。


    大野 若い指揮者はオーケストラを振るチャンスはなかなかありませんから, 手っとり早く音楽の現場で働くことができるのは, オペラ公演に携わることだと考えたわけです。最初は声楽家たちのピアノ稽古のアシスタントという形ですが, それでも指揮者のヒヨコがヒヨコなりに指揮者としての役割を務められる, という意味ではオペラは近道なんです。


    そして卒業されるとバイエルンの国立オペラ, 日本ではミュンヘン・オペラの名称で親しまれていますが, この歌劇場でさらに勉強することになさった。


    大野 そうした形で日本でのオペラ制作をかじっているうちに, 専用のオベラ劇場がないためのさまざまな問題点に気がついて, それではヨーロッパのオペラ劇場のシステムはどうなっているのか, そのことを学びたいという気持になったのです。せっかく留学するのだったら, 日本では絶対に勉強できないことを学ばなくては, 留学する意味はありません。コンクールに参加するだけでも意味はない。先方の日常性のなかに入っていって学ぶ, そういう留学をしようと思ったわけです。


    ミュンヘンでのオペラ修業はどういった形だったのでしょうか。


    大野 通常は午前中と夕方に稽古, というのが毎日のスケジュールで, 午前中はオーケストラの稽古になる場合もありますが, だいたい3カ所ぐらいで歌手の稽古が並行して行なわれています。もちろんプロダクションつまりひとつの演目ごとに独立して進行していますが, 私はそのどれかに必らず立ち会って, 最初から最後までその流れのなかにいたのです。たまたま私がいたときに『ニーベルングの指環』の新しい制作がスタートして, たいへん幸運でしたがそのすべてに立ち会うことができました。《音楽現代》という雑誌に, その制作過程の全容を3カ月連載で書きましたから, ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。そのためには参考文献を読まなくてはいけないと思って, 日本語のワーグナーに関する文献をたくさん送ってもらったり, ドイツ語に苦労したりしましたけれど, いまになってみると留学時代の大きな思い出のひとつになっています。それから日常的なシステムについても, さすがバイエルンの国立オペラだなと感服したことがいくつもありますが, そのひとつがトリンボルンさんというシュトゥディエンライターの存在なんですね。このシュトゥディエンライターという地位は, 歌手たちを指揮するコルペティターの上といいますか, その最高責任者で, その演目の本指揮者がリハーサルを開始する前に, すべての役がついている歌手たちを仕上げて本指揮者に委ねるまでの全責任を負っています。たいへん重要な, また責任の重い地位なんですね。そしてコルペティターというのは, 歌手個人個人の練習をする役目で, 中規模のオペラ劇場でも 4、5 人, 大きいオペラ劇場ですと10人ぐらいいます。


    大野さんはいまのトリンボルンさんから指導を受けられたんですね。


    大野 まずコルペティターというのはこういう仕事をするのだ, ということを週1回レッスンを受けました。なにをするのかというと, まずピアノを弾きながらパートを全部自分で歌えなくてはいけない。かりに登場人物のひとりが練習を欠席しても, 自分がそのパートを歌って練習を進行させる。それができないとコルペティターは務まりません。そしてトリンボルンさんに師事して, モーツァルトの主要なオペラ作品とか, プッチーニのオペラ作品とかを学んだのです。たとえば『魔笛』もそのひとつで, 昨年秋に日本で指揮した『魔笛』では, 私自身がピアノを弾いて歌手たちの練習をつけました。


    シュトゥディエンライターを最高責任者としたコルペティターというスタッフなど, そうしたシステムが確立していてはじめてオペラ劇場が成立する, ということですね。


    大野 そう思います。


    当然, オペラ公演は毎夜のように通われたわけでしょう。


    大野 ええ,毎晩です。モーツァルトのオペラなどは持参したスコアに, もう書きこみに書きこみましたね。ここはどう振っているのか, レチタティーヴォと音楽の「ま」はどうか, などなど気がついたことは全部書きこみました。 トリンボルンさんの部屋にはモニター・テレビがあって,ピットの指揮者を正面に撮っている。その部屋に若い指揮者のタマゴが集って,サヴァリッシュ先生はここはいくつで振っている, といったことをスコアに書きこみます。これがいちばん勉強になりましたね。そのほかクライバーさんやパタネさんの指揮も, とくに勉強になりました。


    そうした書きこみは, ご自身がオペラ指揮をされる場合にはたいへん役立つのでしょうね。


    大野 この前の『ラ・トラヴィアータ』 (1990年1月上演)では,もうフルに使いましたね。


    今年9月からは、ユーゴスラヴィアのザグレブ・フィルの音楽監督にもご就任されますが, このオーケストラとはすでに指揮者としてかかわっていらっしゃいますね。いつごろから, どんなきっかけだったのでしょうか。


    大野 1986年10月からですが, その年の5月にプダペストの指揮者コンクールに参加したおりに, ふたりの審査員の方がひじょうに高く評価してくださったのです。ひとりがパタネさんで,もうひとりがパブルデシパーイさんという, ザグレブ・フィルの前々代の音楽監督の方で, この方が定期演奏会によんでくださって, それがきっかけになってザグレブ・フィルの指揮者を務めることになったのです。じつはこのときの披露演奏会の曲目がバルトークの『オーケストラのための協奏曲』 (笑い)。


    9月の都響指揮者就任披露演奏会も『オーケストラのための協奏曲』ですね。


          1990年9月8日 大野和士 都響指揮者就任披露演奏会チラシ

    大野 楽団主幹に申し上げたら, かまいませんということでしたから, 私にとっての思い出のこの作品を指揮します。その約1年前の1987年11月にユーゴスラヴィアの音楽界にとって, ひじょうに重要な〈現代音楽祭〉というのがあるんですが, この音楽祭に最初の外国人指揮者として招かれました。あとから考えると, 常任指揮者に迎えるかどうかのテストのひとつだったようです。うまくパスしたらしく, その音楽祭のあとで正式に常任指揮者の契約の話がでたわけです。


    ザグレブ・フィルとは今年 9月から、音楽監督・首席指揮者として率いることになるわけですが, このオーケストラには長いキャリアを誇る楽員が何人もいらっしゃるそうですね。


    大野 ええ, ウィーンに近い古都ということで, 古い伝統をもっているのです。指揮者からいえば、ワインガルトナー, ストコフスキー, ワルターといった往年の巨匠たちの名が思い浮かびます。それから例えば1番フルートはもとウィーン響の楽員で, ワルターとかベームのもとで演奏してきています。だから私もよく教えてもらうんですね。例えば昨年6月にブラームスの第2番の交響曲を振ったときに, フレージング, テンポそのほか, すべて適切だけれど, ブラームスは金管が吼えすぎている, とアドバイスしてくれました。ワルターが口をすっぱくしていっていたことは, ブラームスの金管はフォルテシモと指示されていてもフォルテ・ドルチェだと, いつもわれわれにいいきかせていた。それがブラームスの内面的な音楽と絶対に不可欠なんだ, というんですね。そうした楽員の存在というのは, ひじょうに怖い ところがありますが同時にたいへんありがたいんです。


    そうしますと, 今後は東京とザグレブが半々といった生活でしょうか。


    大野 ええ, ザグレブで1年の半分ぐらい過ごすことになるでしょうから。それで街の中心部にアパートメントを契約してくれましたから, そこでひとり暮らししています。いかにも古都らしい静かな街で, 東京にいるときのようなあわただしさを感じません。


    リハーサルのスケジュールはどんな風ですか。


    大野 午前中に練習が終わりますから, みなさん遅い昼食をとって昼寝をして(笑い), また夜7時とか8時の演奏会に集ってくる, といった感じです。だから夜に演奏会がないと, ほぼ半日以上の時間が自由になりますから, 東京とはひじょうにちがいを感じます。どういったらいいですか, 胸いっぱいに深呼吸ができる, といった感じですね。


    都響で今後指揮なさりたい作曲家なり曲目について、どんなご希望あるいはご抱負をおもちですか。


    大野 昨年3月の第287回定期でやらせていただいたショスタコーヴィチの交響曲第6番は、私自身が比較的長いあいだあたためていた, とっておきの切り札みたいな曲目で, どこで指揮できるのだろうかと思っていたときに, ちょうど都響定期の初指揮でできることになったんです。ですからすごくいい機会をあたえていただいたと, たいへん感謝しています。ショスタコーヴィチという作曲家に,たいへん興味があるんですね。ちょうどポスト・マーラーにあたる作曲家で, マーラーの音楽の遺産の一部を, 管弦楽法であるとか長大な交響曲形式であるとかを受け継ぐと同時に, ショスタコーヴィチは完全に20世紀の作曲家であり, しかもたいへん困難な時代を生きてきた。しかもロシアのアバンギャルドの芸術家たちが, つぎつぎと追放され粛清されていくなかで, いいかえると内面的な思索のうちで生きるしか許されなかった時代のなかで生きた作曲家として, その作風は復雑きわまりなく変貌していくわけでしょう。とくに交響曲作品は, そうしたショスタコーヴィチの内面の思索をよくあらわしていると思います。したがって,私たちが生きている現代にとっても, そうしたありようはひじょうに示唆にとんでいると, 私は思っているんです。そのほか, あまり聴かれていないけれど, いまの時代にとってきわめて意味があるという作品を, できるだけ取り上げていきたいと考えています。例えばシベリウスの交響曲などですね。シベリウス・ルネッサンスなどといわれているわりには, いくつかの知名度の高い交響曲をのぞくと, 日本ではあまり取り上げられていません。もっと聴かれてもいいだろうと思いますしシベリウスの交響曲の重要性そのものも, まだ十分には認識されていないと思います。


    今後のご活躍を楽しみにしています。(文責:編集部)


    ©Rikimaru Hotta 2015年4月3日 大野和士音楽監督就任記念公演