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語り継ぐ都響|楽譜で読む都響の50年

都響マエストロ列伝
若杉 弘

若杉 弘
©K.miura

1986~95年の9年間にわたって音楽監督を務め、たぐいまれな企画力で都響に一つの時代を築いた若杉弘。マエストロの業績を振り返るとともに、南山華央倫(ヴィオラ)に思い出を聞きました。

若杉 弘
WAKASUGI Hiroshi(1935.5.31 ~ 2009.7.21)

1974年5月26日 都響に初登壇
1986年4月 第3代音楽監督就任
1987年4月 首席指揮者就任(音楽監督兼任)
1988年4月11日~5月7日 西ヨーロッパ公演
1988年10月~91年10月 若杉弘=都響/サントリーホール
マーラー・シリーズ
1991年4月5日~10日 アメリカ公演
1992年5月~94年7月 若杉弘&都響ワーグナー・シリーズ
1995年3月 音楽監督・首席指揮者退任
2008年1月25日 都響を指揮した最後の演奏会
(第657回定期演奏会Bシリーズ)

ヨーロッパで得た経験を日本へ

 若杉弘といえば、未上演作品の初演や巧みなプログラミング、大規模なシリーズ・プロジェクトで知られる。これらは決して奇をてらったわけではなく、作品に通底する共通点や背景となる芸術思潮に光を当て、曲の魅力へ聴衆を誘いたいという熱意の表れだった。
 1935年5月31日、東京生まれ。30代で読響常任指揮者(1972 ~ 75)を務め、42歳でケルン放送響(現WDR響)首席指揮者(1977 ~ 83)に就任。以後、ライン・ドイツ・オペラ音楽総監督(1981 ~ 86)、ドレスデン州立歌劇場およびドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者(1982 ~ 92)、チューリヒ・トーンハレ協会芸術監督・同管弦楽団首席指揮者(1987 ~ 91)を歴任。同年生まれの小澤征爾が北米を拠点にシンフォニー指揮者としてキャリアを築いたのとは対照的に、若杉はオペラ指揮者としてヨーロッパの名門歌劇場のポストに就いた最初の日本人指揮者だった。
 都響音楽監督時代(1986~95年/ 87年より首席指揮者兼任)、彼はドレスデンとチューリヒのシェフを兼務していたことになる。50歳で就任した都響のポストは、ドイツ語圏の歌劇場&オーケストラで培った実地体験を、日本で展開するきっかけとなった。

マーラーとワーグナーのシリーズ

 都響との初共演は1976年のモーツァルト作品集で、交響曲第41番《ジュピター》とともに交響曲第1番を選曲。若杉は折にふれて「名作を手掛かりに、知られざる作品の妙味を紹介したい」との思いを語っているが、そのスタンスは初登壇から明らかだった。
 音楽監督在任時に大きな話題を集めたのが、マーラーの交響曲全曲を演奏した「マーラー・シリーズ」(1988年10月~ 91年10月/サントリーホールとの共催)。演奏順も前プロもユニークで、まず第1チクルス(第5・6・7番)は新ウィーン楽派と組み合わせ、第2チクルス(第1・2・3番)ではツェムリンスキー、第3チクルス(第4・8・9番)ではシュレーカーを併せて演奏した。それぞれ、各交響曲が初演された頃に20 ~ 30歳前後を迎えていた、マーラーの後継世代を採り上げたことになる。マーラー演奏が一般化していなかった当時、器楽交響曲で始め、歌曲への理解が必要な初期交響曲へ戻り、それから後期へ向かう、という演奏順は、オーケストラにとっても聴衆にとっても理にかなったものだった。
 それ以上の大規模プロジェクトだったのが「ワーグナー・シリーズ」(1992年5月~ 94年7月/サントリーホールとの共催)。ワーグナーの全オペラ作品(未完を除く)を演奏会形式で上演する、という野心的な企画で、初期のオペラ『妖精』『恋愛禁制』『リエンツィ』は日本初演。もちろん、長大なオペラをコンサートの尺に収めた抜粋演奏ではあったが、ワーグナーの全体像を俯瞰する稀有なライヴ体験を提供した。これも演奏日程は作曲順ではなく、「聖杯と禁令」「純愛と救済」「歌合戦と市民劇」と3つのテーマを設けて各オペラの性格を明らかにしたのは、いかにも若杉らしかった。

アメリカ公演 写真

アメリカ公演
バルトーク:ヴィオラ協奏曲(ヴィオラ/今井信子)
(1991年4月5日/ニューヨーク・カーネギーホール)
©堀田正實

若杉弘&都響 写真

若杉弘&都響
ワーグナー・シリーズ(1992年5月~ 94年7月)

 ちなみにシリーズではないが、任期中にブルックナーの番号付交響曲も8曲指揮、退任後の第4番(1999年12月)で完奏している。その際もプログラムにプフィッツナーやマルタンを組み合わせ、第4番の前プロは武満徹《系図》であった。
 こうして、大曲や日本初演作品を連続して演奏したことは、都響の経験値を高め、メジャー・オーケストラとしての風格を備える基礎となった。オペラの演奏会形式上演は、オーケストラが(ピットではなく)ステージに上がるため、歌手をかき消してしまいがちでバランスが難しい。特に管楽器は常に弱奏を強いられてストレスが大きいが、結果的に精緻なアンサンブルを磨いたことも確かであろう。
 一方で、音楽監督就任直後に「都響日本の作曲家シリーズ」を立ち上げ(1987年1月)、この現代作品特集は形を変えながら以後29年続く名物シリーズとなった。

録音

 若杉弘と都響の録音は、「マーラー・シリーズ」をライヴ収録したものが日本の指揮者&オケによる初の『マーラー:交響曲全集』として記念碑的な存在感を放つ。さらに『武満徹:ノヴェンバー・ステップス/ヴィジョンズ 他』『武満徹:ジェモー/夢窓/精霊の庭』『R.シュトラウス:バレエ音楽全集』『ワーグナー:交響曲ホ長調/交響曲ハ長調』など、世界的にも貴重なレパートリーがクオリティの高い演奏で結実した。

 

退任後

 都響退任後は、N響正指揮者(1995 ~ 2009)としてブルックナーの交響曲をメシアン作品と組み合わせたシリーズを指揮(意外なセットだが、両者にはカトリック信仰とオルガニストという共通点がある)。びわ湖ホール芸術監督(1996 ~ 2007)としてヴェルディの日本未初演オペラ9作を連続上演。新国立劇場オペラ芸術監督(2007 ~ 09)としては、体調悪化のため『黒船』『ペレアスとメリザンド』『兵士たち』の3作を指揮したにとどまったが、『黒船』は山田耕筰による日本のグランド・オペラ第1号の完全上演であり、『兵士たち』はツィンマーマンによる演奏困難な大作の日本初演であった。
 最後まで若々しくしなやかな指揮ぶりで、日本のオペラとオーケストラに多大な貢献を果たした若杉弘は2009年7月21日、74歳で逝去。まだまだ彼を必要とする作品が残る中、指揮者としては早すぎる死が惜しまれる。

若杉弘の思い出 作曲家の意図を体現

南山 華央倫 写真

©堀田力丸

南山 華央倫
MINAMIYAMA Kaori
ヴィオラ(入団/1979年4月1日)

 若杉弘さんのことを考えると、まず思い浮かぶのは企画力ですね。都響の音楽監督を務められた時期(1986年4月~95年3月)、演奏会では毎回のように弾いたことのない新しい曲、それも大曲が続いて、体力的にもキツかった。でもそのストレスを乗り越えたことで都響は成長しましたし、オーケストラの技術も上がりました。やはり、若杉さん時代は一つの黄金時代だったなと思います。
 マエストロの指揮で武満徹さん(1930~ 96)の曲をたくさん録音しました。武満さんの楽譜はとても細かく書かれているのですが、ある曲で「8分の5.5拍子」が出てきまして。つまり1小節が「8分音符5個+ 16分音符1個」で出来ていて、ゆっくりとした曲で8分音符も長いのですが、さらに小節のおしまいにリタルダンド(だんだん遅く)が書いてあったりする。
 もちろんオーケストラは楽譜通り正確に弾くのですが、そこで若杉さんは身体をぐんと伸ばして、テンポを大きく落とす。すると「8分の5.5」どころか「8分の6」、あるいはそれ以上に音が伸びてしまうわけです。確かにリタルダンドが書いてあるけれど、これはやり過ぎじゃないのか。こういう時、オーケストラって「もっと正確に振ってほしい」とイライラするものなのです。
 ところが、録音の立ち会いにいらしていた武満さんは「今のは素晴らしかった」とOKを出す。何故なんだろう、と不思議だったのですが、一度、楽譜も持たずに何気なくプレイバックを聴いていたら、とても良い雰囲気の音が鳴っている。
 「あれ?」と思ったのと同時に、「そういうことか」とストンと腑に落ちました。武満さんは細かい譜割りで書いているけれど、その通りに杓子定規に弾いてほしいのではなくて、「こんな音が欲しい」を楽譜に表現した結果が「8分の5.5」になっている。「8分の5.5」でリタルダンドすると、「8分の6」と同じことになるかもしれないけれど、かといって最初から「8分の6」で書いてしまったら、微妙なためらいがなくなる。音楽のニュアンスが変わってしまう。
 私たちプレイヤーは、楽譜通りに弾くことを第一に考えます。作曲家も、もちろん楽譜通りに弾いてほしいわけですけれど、自分が想像していた音が実際に鳴ることの方がよほど重要で。若杉さんは、楽譜に忠実であるより、そこから感じるイメージに忠実でありたかったのだと。大切なことを勉強させていただいた気がします。

(取材・文/友部衆樹 月刊都響2015年7・8月号より転載)