プロムナードコンサートNo.381

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47

 フィンランドの国民的作曲家ジャン・シベリウス(1865 ~ 1957)は、後年の作品群では響きの感覚や動機の展開にも綿密な配慮をめぐらせ、音楽の呼吸を多彩に込めた独自の世界を創り出していったが、初期には国民楽派やロマン派のスタイルで力みなぎる作品を多く書いている。その系譜の最後に位置するのがヴァイオリン協奏曲(1903 / 05年改訂)だ。

 既に1890年代には象徴主義音楽の影響を受けた交響詩など創作の新境地を拓いていたシベリウスだが、ここではチャイコフスキーなど先達にも通じるロマンティックな世界へ立ち戻ったわけだ。とはいえもちろん、その凛と美しい冒頭からして、北欧の自然を反映したような壮大な情感を湛えて個性的。

 ヘルシンキ音楽院でヴァイオリンと作曲を学んだシベリウスは、卒業後ベルリンとウィーンへ留学しているが、美酒美食をはじめ贅沢癖に溺れた彼は、好収入を期待してか1891年1月にウィーン・フィルのヴァイオリン奏者のオーディションを受け……極度のあがり症で失敗。涙を呑んだシベリウスはいよいよ作曲の道を邁進することになるわけだが、彼が唯一残したヴァイオリン協奏曲が高い技巧と音楽性を要求するのも、自身が熟達した奏者であったことを思えば当然だろう。

 交響曲第2番(1902年3月初演)で大成功を収めたシベリウスは、その年の秋からこの協奏曲を計画している。1903年に作曲は進められ、彼の才能に惚れ込んでいたドイツ人の名匠ヴィリー・ブルメスター(1869 ~ 1933)が初演することにもなっていた。ところが、相変わらずの浪費癖で経済的に逼迫したシベリウスは、ブルメスターが来演する前に新作を初演しなければならなくなった。代わりにヘルシンキ音楽院の教師が1904年2月の初演を弾いたが、このとき演奏された初稿はほとんど残酷と言うべきほどに演奏困難、初演は不評に終わった。

 シベリウスは全面改訂、より簡明に凝縮された決定稿(といっても演奏は十二分に難しい)を1905年10月に初演した(ちなみにこれまたブルメスターが出演不可能なタイミング、さすがの彼も以後の演奏を拒否したとか)。

 急-緩-急の伝統的な3楽章構成だが、第1楽章(アレグロ・モデラート)では展開部にあたる中央に長大なカデンツァを置き、自在奔放な独奏も有機的な構造に組み込むなど、幻想美溢れる中にも重量級の印象を残す。

 第2楽章(アダージョ・ディ・モルト)は3部形式、息ながい歌と共に、シベリウスの特徴であるシンコペーションをはじめ複雑なリズムの交差が効果的。

 第3楽章(アレグロ・マ・ノン・タント)をある人が「北極熊のポロネーズ」と呼んだのは面白いけれど、暗くも鋭い躍動感をもって輝くその印象は熊どころではない鮮やかさだ。

(山野雄大)

作曲年代 1903年 改訂1905年
初  演 初稿/ 1904年2月8日 ヘルシンキ ヴィクトル・ノヴァーチェク独奏 作曲者指揮
改訂稿/ 1905年10月19日 ベルリン カレル・ハリール独奏 リヒャルト・シュトラウス指揮
楽器編成 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦楽5部、独奏ヴァイオリン




チャイコフスキー:交響曲第1番 ト短調 op.13《冬の日の幻想》

 ロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840 ~ 93)は、《マンフレッド》交響曲を含めると、全部で7つの交響曲を完成した。このうち、彼の最初の交響曲である第1番は、第4~6番に比べて演奏機会はずっと少ないが、若きチャイコフスキーの旋律美と抒情性、そしてロシア情緒に満ちた魅力的な作品だ。

 1862年、偉大なピアニストで作曲家であったアントン・ルビンシテイン(1829 ~ 94)が、当時ロシアの首都であったサンクトペテルブルクに音楽院を創設する。この音楽院は後に綺羅星のごとき優れた音楽家を輩出するが、チャイコフスキーはこの学校の最初の学生の1人だった。1865年12月、同音楽院を卒業したチャイコフスキーは、アントンの弟で、やはり名ピアニストだったニコライ・ルビンシテイン(1835 ~ 81)に招かれ、1866年9月、彼が創設したモスクワ音楽院の教師となる。

 交響曲第1番が作曲されたのはこの時期である。着手は1866年3月ころで、当時チャイコフスキーは25歳だった。作曲は非常に難航したようで、弟モデストによると、作曲者は不眠に悩まされ、ついには幻覚を見るほどだったという。ともあれ、その夏、チャイコフスキーはできあがった交響曲(まだ完成していなかったという説もある)を、サンクトペテルブルク時代の2人の師、アントン・ルビンシテインとニコライ・ザレンバ(1821 ~ 79)に見せた。しかし彼らの反応は芳しくなく、チャイコフスキーはいくらかの修正を行う。

 一方、モスクワのニコライ・ルビンシテインは彼らと逆にこの曲を高く評価し、まず1866年12月に第3楽章、翌年2月に第2、3楽章を演奏、そして1868年2月には全曲初演を行い、成功を収めた。作曲者はこの曲をニコライ・ルビンシテインに献呈した。

 1874年、チャイコフスキーは第1楽章の第2主題を新しくしたのをはじめ、全曲に手を加える。このとき、初めて出版も行われた。この改訂版の初演は1883年に行われたが、このとき楽譜を見直した彼は、出版譜に多くの間違いがあることに気づき、さらに手直しを行った。現在演奏されているのはこの版である。

 チャイコフスキーは自己批判の強い作曲家だったが、苦心して完成したこの最初の交響曲には愛着があったようだ。1883年の演奏の際、彼は友人カール・アルブレヒト(1836 ~ 93)に「多くの欠点にもかかわらず、私はこの曲が大好きです。これは私の甘き青春の罪だからです」と書いた。また、彼に多額の援助を与えたパトロンであったフォン・メック夫人(1831 ~ 94)には「いろいろな意味で未熟ですが、基本的には私のより成熟した作品の多くよりも豊かな内容を持っています」と書き送っている。

 なお、《冬の日の幻想》という全曲の副題、そして第1楽章と第2楽章の副題はチャイコフスキー自身によるものであるが、これらの副題について、作曲者は何も説明を残していないので、詳しいことはわからない。

 第1楽章「冬の旅の夢想」 アレグロ・トランクィロ ト短調 4分の2拍子 ソナタ形式 冒頭のフルートとファゴットによる寒々とした第1主題に続いて、クラリネット独奏による人懐こい第2主題が現れる。展開部は主に第1主題が扱われる。

 第2楽章「陰鬱な土地、霧深き土地」 アダージョ・カンタービレ・マ・ノン・タント 変ホ長調 4分の4拍子 ロンド形式 チャイコフスキー特有の哀愁を帯びた旋律が切々と歌われる。1866年、作曲者がサンクトペテルブルク北方のラドガ湖を旅行したときの印象が反映していると言われる。なお、この楽章は1868年の全曲初演の際には特に評判が良かった。

 第3楽章 スケルツォ/アレグロ・スケルツァンド・ジョコーソ ハ短調 8分の3拍子 3部形式のスケルツォ。主部の繊細な旋律は、1865年、音楽院時代の最後の年に、《ピアノ・ソナタ 嬰ハ短調》のために作曲していたものの転用である。中間部はおだやかなワルツ風で、チャイコフスキーのワルツに対する偏愛が早くも表れている。

 第4楽章 フィナーレ/アンダンテ・ルグーブレ~アレグロ・マエストーソ ト短調 4分の4拍子 ~ ト長調 2分の2拍子 ルグーブレとは「悲しい」の意味。陰鬱な序奏ではファゴットが、民謡《小さな花よ咲け》の主題による旋律を吹く。主部はソナタ形式で、一転、輝かしくエネルギッシュな音楽となる。序奏の主題も主要主題の1つとして現れ、対位法も用いつつ高揚し、力強いコーダへと到達する。

(増田良介

作曲年代 1866年3月~秋 改訂/ 1866年、1874年、1883 ~ 84年
初  演 初稿全曲/ 1868年2月15日(ロシア旧暦2月3日)モスクワ ニコライ・ルビンシテイン指揮
改訂稿全曲/ 1883年12月1日(ロシア旧暦11月19日)モスクワ マックス・エルドマンスデルファー指揮
楽器編成 ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、シンバル、弦楽5部