第826回 定期演奏会Cシリーズ

広瀬 大介

ベートーヴェン:序曲『レオノーレ』第3番 op.72b

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)が唯一残したオペラ『フィデリオ』を巡る上演事情はかなり複雑である。作曲開始は1803年(当初のタイトルは『レオノーレ』)。その改訂と序曲の関係は錯綜しているため、以下年表風にまとめた。

1805年11月20日 アン・デア・ウィーン劇場
 『レオノーレ』第1稿初演。序曲『レオノーレ』第2番(上演に使用された序曲/以下同)。
1806年3月29日 アン・デア・ウィーン劇場
 『レオノーレ』第2稿初演。3幕から2幕に改作。序曲『レオノーレ』第3番(本日演奏)。
1807年
 プラハでの上演用に序曲を作曲(上演は実現せず)。序曲『レオノーレ』第1番(旧説ではこの曲の成立がもっとも早いとされたため、「第1番」の番号が与えられた)。
1814年5月23日 ケルントナートーア劇場
 『フィデリオ』と改名された第3稿を初演。序曲の作曲が間に合わず、『アテネの廃墟』序曲を使用。5月26日の第2回公演で『フィデリオ』序曲が初めて演奏される。

 革命の強権支配から脱出する英雄物語は、当時の世相をもっとも良くあらわす題材であり、政敵ドン・ピツァロによって獄中にとらえられた英雄フロレスタンを救い出す妻レオノーレの可憐かつ芯の強い人物描写は、多くの人の胸を打った。絶対王政にも、フランス革命にも、そしてナポレオンの帝政にも絶望した1810年代のベートーヴェンは、本当の意味で目指したユートピア的な共和制の世界観を、自作のさらなる改訂を通じて反映させようとした。

 最終的な勝利を感じさせる(交響曲第5番フィナーレと同じ)ハ長調を用い、ソナタ形式の中に、劇の内容を暗示するかのような闘争をあらわすモティーフと、フロレスタンが登場する第2幕のアリアの旋律が組み込まれる。劇の内容を暗示する旋律で序曲を構成する方法は、すでにモーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』や『コシ・ファン・トゥッテ』序曲冒頭で試しており、ベートーヴェンはそれをもう一歩推し進めたことになる(最終的に確定した『フィデリオ』序曲では、劇中のモティーフは用いられていないが)。数多くの『レオノーレ』『フィデリオ』序曲の中で、このもっともドラマティックな第3番は、後期のベートーヴェン作品を暗示する力強さを示している。

作曲年代 1805~1806年
初  演 1806年3月29日 ウィーン アン・デア・ウィーン劇場 イグナツ・ザイフリート指揮
楽器編成 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、弦楽5部、舞台裏にトランペット

ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 op.93

 1809年から13年にかけては、ヨーロッパはまさに激動の時代。フランス軍のウィーン占領およびロシア遠征の敗北があり、ベートーヴェンの周囲でも恩師ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)の死、テレーゼ・マルファッティ(1792~1851)やアントーニエ・ブレンターノ(1780~1869)との真剣な交際と破局などが続いたが、この時期の作品群には、生の喜びを感じさせるような明るい雰囲気の曲が多く、この交響曲も例外ではない。

 第8番はつい最近までベートーヴェンの「小交響曲」と呼ばれることが多かった。前後の交響曲に比べると確かに楽曲としての規模は小さいが、「小」というのはむしろ、くつろいだ雰囲気を多分に有し、室内楽的にオーケストラの各楽器が絡み合う、その音楽の性格に起因するものだろう。

 第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオ 何の前置きもなく、突然第1主題の全奏で始まる。あちこち寄り道をしながら進んでいく提示部に対し、その風が一転、春の嵐を思わせるように一直線に進んでいく展開部という構成は、同じヘ長調のヴァイオリン・ソナタ《春》や交響曲第6番《田園》といった名曲を書いてきたベートーヴェンの集大成でもある。

 第2楽章 アレグレット・スケルツァンド 緩徐楽章は置かれず、第2楽章はスケルツァンド、第3楽章はメヌエットとされている。この楽章では、当時開発途中だったクロノメーター(メトロノーム)の音を模倣したという「伝説」が有名だが、現在では真偽のほどは残念ながら不明。

 第3楽章 テンポ・ディ・メヌエット 交響曲第1番の第3楽章も「メヌエット」と題されてはいるが、実質的にはほとんどスケルツォであったことを考えると、「メヌエット」として作曲されているのは、9曲の交響曲の中ではこの作品だけ、ということになる(積極的な音楽ではあるが)。

 第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ オクターヴ間隔でチューニングされた2台一対のティンパニは、それ以前の交響曲でも前例がない(この用法の妙は、続く交響曲第9番第2楽章で開花する)。ティンパニがファゴットとユニゾンでオクターヴ跳躍する箇所は、作曲家の天才的なひらめきとユーモアのセンスを証明して余すところがない。ハ音に解決しようとするところで半音上の嬰ハ音を鳴らし、コーダを提示部の2倍以上に拡大。作曲家の尽きることなき実験精神の現れであろう。

作曲年代 1812年
初  演 1814年2月27日 ウィーン レドゥーテンザール 作曲者指揮
楽器編成 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦楽5部

ワーグナー:歌劇『さまよえるオランダ人』序曲

 キャリア初期のリヒャルト・ワーグナー(1813~83)は、自らの作風を確立させるため、同時代のオペラの作曲様式を学び、敢えて意識的に取り入れようと努力している。『妖精』(1834年)ではドイツ・ロマン派オペラ、『恋愛禁制』(1836年)ではイタリアのオペラ・ブッファ、『リエンツィ』(1840年)ではフランスのグランド・オペラをその模範とした。これらを踏まえた上で、『さまよえるオランダ人』以降、ワーグナーは、ドラマの流れを重視し、すでに廃される方向に進んでいたレチタティーヴォとアリアの区別をなくしつつ、声楽的な聴きどころを随所にちりばめるようになる。

 ワーグナーは、1843年にドレスデンで初演された『さまよえるオランダ人』の音楽を、実際に嵐で荒れ狂う中を進む船に乗った折に着想を得た、と自伝に記している。船乗りの間で語り継がれてきた伝説をもとに書かれたハインリヒ・ハイネ(1797~1856)の作品に基づく形で、ワーグナーみずからが台本を手がけた。世間に受け容れてもらえない、惨めな境遇に陥っているオランダ人に、自身の不遇を重ね合わせたようにも見える。

 呪いをかけられた幽霊船の船長、オランダ人は、7年に一度だけその船から下りることを許されているが、その間に、みずからへまことの愛を捧げる女性を見つけねば、その呪いは解けない。序曲冒頭のホルンとファゴットによる斉奏が、この呪いを暗示する(空虚5度(注)による開始は、ベートーヴェンの交響曲第9番の影響を受けているだろうか)。船から下りたオランダ人は自身の運命を嘆くが、そこに居合わせたノルウェーの船長ダーラントと知り合いとなり、ダーラントはオランダ人がもつ無尽蔵の財産目当てに娘を嫁がせようと約束する。

 一方、ダーラントの娘ゼンタはオランダ人の伝説に魅了され、ひとり夢見がちに彼の肖像画を見つめ、オランダ人と結ばれる運命を歌う(この場面で提示される「救済の動機」は序曲でも呪いの動機と対照的に使われ、コーダにも登場することでオランダ人の救済を示す)。

 すると、オランダ人が父親ダーラントに連れられて本当に現れ、2人は永遠の愛を誓う。だがゼンタに想いを寄せる猟師エリックの存在を知ったオランダ人は絶望し、もとの海へ戻ろうとするが、ゼンタはみずからを犠牲とすることで、彼の魂を救済する。

(注)空虚5度。長調で言うと「ドミソ」の第3音「ミ」を欠いた和音で、長調か短調か判別できない空虚な響きがする。

作曲年代 1840~41年
初  演 1843年1月2日 ドレスデン宮廷劇場 作曲者指揮
楽器編成 ピッコロ、フルート2、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、ハープ、弦楽5部

ワーグナー:歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲

 若き日のワーグナーが、ドレスデン宮廷劇場で音楽監督を務めている時代に作曲した『ローエングリン』。その後の革命騒ぎで反体制側に与したワーグナーはドイツ国外に亡命せざるを得なくなり、盟友フランツ・リスト(1811~86)によるヴァイマールでの『ローエングリン』初演(1850年)に立ち会うことはおろか、その後長い間、この作品の上演に接することも叶わなかった。

 『さまよえるオランダ人』以降に作曲された『タンホイザー』『ローエングリン』は、いずれもドイツ中世史を題材に取ったロマン派オペラの典型であり、ロルツィング、マルシュナーといった、当時活躍していた他の作曲家の作品と大きく異なるわけではないが、『ニーベルングの指環』以降に開拓する音楽とドラマのより緊密な一体化、いわゆる「楽劇」への萌芽はあちこちに見て取れる。

 ドイツ国王ハインリヒが自国の軍勢を率いてアントヴェルペンに到着し、ハンガリーの脅威に対し、ブラバントの諸国よ団結せよと呼びかける。伯爵テルラムントは、亡きブラバント公爵の娘エルザが行方不明の弟ゴットフリートを隠し、不当にブラバント公爵の地位を得ようとしている、と訴え、国王の裁定を仰ぐ。無実を訴えるエルザに対し、国王は代わりに神前決闘に臨む騎士を立てよと命じると、エルザの夢に現れた、白鳥に乗った騎士が本当に現れる。騎士は自らの名前と素性を決して訊ねないことを条件に、エルザの代わりに戦うことを約束。騎士は神がかり的な強さでテルラムントを打ち倒す。

 第1幕冒頭の前奏曲は、まさにこの白鳥の騎士が登場する場面の音楽を先取りし、輝かしいイ長調がローエングリンその人を示す調性であることを宣言する。そして、第3幕で禁じられた騎士の名前をエルザが訊いてしまい、その場を離れる騎士が自らの名「ローエングリン」を名乗る際にも、この冒頭部分が厳かに再現されている。

作曲年代 1846~48年
初  演 1850年8月28日 ヴァイマール宮廷劇場 フランツ・リスト指揮
楽器編成 フルート3、オーボエ2、イングリッシュホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット3、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、弦楽5部

ワーグナー:楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲

 『さまよえるオランダ人』以降のワーグナー主要作品において、純粋に喜劇と呼びうる作品は唯一、本作だけである。最初期の台本草稿は、『タンホイザー』の成立と期を同じくする1845年7月に完成してはいたが、実際に15~16世紀に活躍したマイスタージンガー(歌の芸術をも追究した職人)たちの事績を調べたり、亡命生活を余儀なくされたりしたため、さらなる改訂が1861年までに手がけられる。翌年には台本を書き上げ、直ちに作曲に着手するが、当時のワーグナーは貧窮のどん底にあり、なかなか筆は進まない。

 1864年、バイエルン国王ルートヴィヒ2世(1845~86)がワーグナーを自国に招いたことで状況は一変。1868年6月にはミュンヘンで、ハンス・フォン・ビューロー(1830~94)の指揮によって初演された。

 第1幕の前奏曲では、この作品全体を要約するかのように、ソナタ形式で作品の全体像が語り尽くされる。冒頭、主役である靴屋ハンス・ザックスに代表されるマイスターたちとその芸術を表す動機(ハ長調)が、ソナタ形式における提示部の第1主題とすれば、第2主題にあたるのはそのマイスターの硬直した世界観に新しい風をもたらす騎士ヴァルターと、金細工師ポーグナーの娘エーファの愛を表す動機となる。中間の展開部では、このマイスターの動機が木管のおどけた調子で演奏され(変ホ長調)、書記官ベックメッサーによる妨害にもめげないふたりの愛の強さが描かれる。

 再現部では、この愛の動機がマイスターの動機によって下支えされながら多声部の音楽として進行し、ふたりの愛がザックスの自己犠牲、そしてヴァルターがマイスターとしてエーファを愛することによって成就することが示される。この再現部では、かなりの部分が第3幕幕切れの音楽を踏襲しており、長大な楽劇の最初と最後を有機的に結びつけていることにも注目されよう。

作曲年代 1862~67年
初  演 1868年6月21日 ミュンヘン宮廷劇場 ハンス・フォン・ビューロー指揮
楽器編成 ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、シンバル、トライアングル、ハープ、弦楽5部

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